三ちゃんのサンデーサンライズ。第443回。令和5年11月19日、日曜日。
先週7日から14日まで北海道にいました。
別海町、根室方面の布教巡回でした。
その中で、日本最東端の納沙布岬に連れて行ってもらいました。北方領土に最も近い場所です。
岬の灯台まで行くと、海の中に少し傾いた灯台が見えます。これが貝殻島で、距離は3.7㎞。この間に国境があります。
終戦まで、四島には17,000人以上の日本人が暮らしていました。
終戦と同時にソ連が侵攻し四島を占拠、2年後に全員の日本人が島から退去させられました。
多くの島民は島の見える根室周辺に仮住まいし、やがて帰れると期待して待っていたのです。
島民の一割ほどの人は富山に移住しました。
というのは、多くの富山県民が夏の間の出稼ぎとして昆布漁に来ていて、そのまま島に住んだ人も多かったからです。その人たちは第二の故郷を離れ元の故郷に帰ったことになります。
岬の突端には「望郷の家」「北方館」が建てられ、四島を望むことができます。
訪ねた10日は残念ながら荒天で島影は見えませんでしたが、それ以降の日は何度も根室市内からも別海町からも国後島が見えました。
ここに来るまでは、領土問題はやはり他人事としかとらえられておらず、深刻には感じられませんでした。
この場所に立って、自分たちの島が不法に占拠されているという元島民の切ない思いを肌で感じることができました。
故郷の島が目の前に見えているという近さだけに、歯がゆさを感じてこられたことと思います。
やはり現場に来ないと物事は見えてきませんね。
もっと古くを考えれば、千島列島にはすべてアイヌ語の島名がついていて、それはここがアイヌの人々の生活の場であったという証拠とも言え、その島、もっと言えば北海道全土や東北の各地も、アイヌあるいは蝦夷(えみし)の人々の地だったのを和人に占拠されたと言うこともできます。
ただ、北方領土の国境に関して言えば、日露の条約を旧ソ連側が一方的に破ったという事実があるので、そこははっきりしておかなければならないと思います。
ソ連が崩壊したときを契機に水面下で返還の動きがあったと聞きました。
ただ、日本側の政治問題で実現には至らなかったとのこと。
その後も何度か返還を試みましたが未だに帰っては来ません。
ロシアにとっての軍事的な意味合いが強いようです。
根付湾にきれいな朝日が昇るホテルの朝食で、隣のテーブルに座ったのは家族4人の若い親子でした。
昨日はこの宿で家族水入らずの一夜を過ごしたのでしょう。
子どもたちは、お父さんとお母さんと一緒にお出かけしてどんなに楽しかったことかと想像しました。
自宅ではないどこかに、家族でお泊りするだけで、それだけで楽しいものですよね。
部屋がどうだとか、食事がどうだとかは、子どもたちにはほとんど問題ではないでしょう。
大人はどうしても、何かと比べて批判をしたがりますが、子どもは、家族が一緒にいる、それだけで楽しいのですから、子どもに見習ってその時間を素直に楽しめばいいと思います。
考えてみれば、多くのことがその通りです。
今そこに命があるだけでありがたいことなのに、それを楽しまずに、足りないことを探し、文句を言ってその時を過ごすのは、実にもったいないことです。
子どもの時の心を思い出したいと思います。
隣のテーブルにチラチラと目をやりながら、楽しかった?よかったねえ、と、朝日に照らされた親子の笑顔をまぶしく眺めていました。
自坊に帰れば、1週間分のイチョウ葉がたまり、雪囲いも途中であったことに気づき、事務処理もたまっています。
遠い山には白いベールがまとい、冬タイヤへの交換も済ませました。
雪が来る前にやるべきことをやっておかなければなりません。
今頭を悩ませているのは、鯉の越冬をどうするかです。
これまでは鯉屋さんに避難して冬の間預かってもらっていました。
その鯉屋の旦那さんが亡くなり、預けることができなくなりました。
屋根からの雪で山のようになる裏庭の池で、鯉をどのように越冬させるか、それが問題です。
イタチが来てやられるという情報もあります。その対策もしなければなりません。
今年が初めての経験なので、今色々相談しながら、ああでもないこうでもないと思案しています。
鯉と共に無事に春を迎えられるか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
先週7日から14日まで北海道にいました。
別海町、根室方面の布教巡回でした。
その中で、日本最東端の納沙布岬に連れて行ってもらいました。北方領土に最も近い場所です。
岬の灯台まで行くと、海の中に少し傾いた灯台が見えます。これが貝殻島で、距離は3.7㎞。この間に国境があります。
終戦まで、四島には17,000人以上の日本人が暮らしていました。
終戦と同時にソ連が侵攻し四島を占拠、2年後に全員の日本人が島から退去させられました。
多くの島民は島の見える根室周辺に仮住まいし、やがて帰れると期待して待っていたのです。
島民の一割ほどの人は富山に移住しました。
というのは、多くの富山県民が夏の間の出稼ぎとして昆布漁に来ていて、そのまま島に住んだ人も多かったからです。その人たちは第二の故郷を離れ元の故郷に帰ったことになります。
岬の突端には「望郷の家」「北方館」が建てられ、四島を望むことができます。
訪ねた10日は残念ながら荒天で島影は見えませんでしたが、それ以降の日は何度も根室市内からも別海町からも国後島が見えました。
ここに来るまでは、領土問題はやはり他人事としかとらえられておらず、深刻には感じられませんでした。
この場所に立って、自分たちの島が不法に占拠されているという元島民の切ない思いを肌で感じることができました。
故郷の島が目の前に見えているという近さだけに、歯がゆさを感じてこられたことと思います。
やはり現場に来ないと物事は見えてきませんね。
もっと古くを考えれば、千島列島にはすべてアイヌ語の島名がついていて、それはここがアイヌの人々の生活の場であったという証拠とも言え、その島、もっと言えば北海道全土や東北の各地も、アイヌあるいは蝦夷(えみし)の人々の地だったのを和人に占拠されたと言うこともできます。
ただ、北方領土の国境に関して言えば、日露の条約を旧ソ連側が一方的に破ったという事実があるので、そこははっきりしておかなければならないと思います。
ソ連が崩壊したときを契機に水面下で返還の動きがあったと聞きました。
ただ、日本側の政治問題で実現には至らなかったとのこと。
その後も何度か返還を試みましたが未だに帰っては来ません。
ロシアにとっての軍事的な意味合いが強いようです。
根付湾にきれいな朝日が昇るホテルの朝食で、隣のテーブルに座ったのは家族4人の若い親子でした。
昨日はこの宿で家族水入らずの一夜を過ごしたのでしょう。
子どもたちは、お父さんとお母さんと一緒にお出かけしてどんなに楽しかったことかと想像しました。
自宅ではないどこかに、家族でお泊りするだけで、それだけで楽しいものですよね。
部屋がどうだとか、食事がどうだとかは、子どもたちにはほとんど問題ではないでしょう。
大人はどうしても、何かと比べて批判をしたがりますが、子どもは、家族が一緒にいる、それだけで楽しいのですから、子どもに見習ってその時間を素直に楽しめばいいと思います。
考えてみれば、多くのことがその通りです。
今そこに命があるだけでありがたいことなのに、それを楽しまずに、足りないことを探し、文句を言ってその時を過ごすのは、実にもったいないことです。
子どもの時の心を思い出したいと思います。
隣のテーブルにチラチラと目をやりながら、楽しかった?よかったねえ、と、朝日に照らされた親子の笑顔をまぶしく眺めていました。
自坊に帰れば、1週間分のイチョウ葉がたまり、雪囲いも途中であったことに気づき、事務処理もたまっています。
遠い山には白いベールがまとい、冬タイヤへの交換も済ませました。
雪が来る前にやるべきことをやっておかなければなりません。
今頭を悩ませているのは、鯉の越冬をどうするかです。
これまでは鯉屋さんに避難して冬の間預かってもらっていました。
その鯉屋の旦那さんが亡くなり、預けることができなくなりました。
屋根からの雪で山のようになる裏庭の池で、鯉をどのように越冬させるか、それが問題です。
イタチが来てやられるという情報もあります。その対策もしなければなりません。
今年が初めての経験なので、今色々相談しながら、ああでもないこうでもないと思案しています。
鯉と共に無事に春を迎えられるか。
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
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