東日本大震災の避難所がまだ残っていたということを知りませんでした。
双葉町の住民が避難している埼玉県加須市の避難所がそれ。
今日縁あって、伺ってきました。
間もなく2年が経とうとしている現在、ここが唯一最後に残った避難所です。
原発事故後、双葉町民7000人は町を追われ、川俣町、さいたまアリーナを経て、加須市の旧騎西高校校舎に落ち着いたのが3月31日。その時の人数は約1400名。
足の踏み場もなく、人をまたがないとトイレにも行けないような状態でした。
その後、多くの人は福島県内の仮設住宅や加須市周辺の見なし仮設に転居して、現在も避難所に身を置いている人の数は約130名。
やはり、高齢者や生活の厳しい、いわゆる社会的弱者の方々だという。
「平均年齢70歳ぐらいかなあ」とのこと。
昨年9月には、それまで日に3度配給されていた弁当が有料となりました。
仮設に移った人たちは自分で生活しているんだから、避難所だけいつまでも特別扱いできない、というのが理由。
避難所では電気は使えるがガスが使えないので、結局自炊することができず、弁当に頼るほかない。
そんな人たちを見かねて、加須ふれあいセンターが「寄り添いセンター、こらっせ、くわっせ双葉」を立ち上げ、昼食の営業を始めました。
はじめてここで食べた人が、温かいみそ汁と茶碗でごはんを食べることに、その当たり前のことにいたく感激されていた、という話を聞いて、あまりにも長い避難所生活、弁当の生活のつらさを知らされたことでした。
センターでは、1食300円というギリギリの値段設定で運営していますが、ひと月に60㌔使う米の支援だけでも何とかならないかという情報を耳にして視察に伺ったことでした。
避難所には、役場も一緒に避難しています。
町長が不信任決議され辞職、議会は解散という混乱の中、今後町がどうなっていくのか、全く不透明であることに町民は不安の只中にあります。
避難所の部屋をのぞかせていただきました。
他の避難所と同じです。畳を敷いた教室を、段ボール箱などで間仕切りし、一部屋に3~4世帯が暮らしていました。
もう2年です。
町役場はいわき市に移転の準備を進めていますが、それがいつになるのか二転三転しているようです。
「役場が福島に戻っても、おれたちはもう戻らない」という声が聞こえました。
89歳の女性は、「2年近くもここにいると、住めば都ということだな。もう戻るつもりはありません。息子夫婦も、私に最後に自分の家に住まわせたいとここに家を買う相談をしている」と話してくれました。
「忘れ去られた避難所」だと思いました。
でも、知らされないことは、自ら知らなければならないのです。
今後さらに忘れ去られてしまわないように、時々顔を出したいと思いました。
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