三ちゃんのサンデーサンライズ。第475回。令和6年7月14日、日曜日。
先週の続き。
考えてみれば、老齢者というのは若者に身を奉げる献体のようなものではないかと思い至りました。
以前青森の和尚さんがこんな話をされました。
師匠、父親を自宅で看取った。
今際の際に父親は自分を枕辺に呼んで、息絶え絶えにこう言った。
「看病は、慈悲の、徳を、養う、最大の、修行なり」と。
お前はよく看病してくれた、これは慈悲の徳を養うお前の修行だった。
そのために、私はこの身を提供してきたのだ。ということだろう。
私もわずかばかり父親の介護のまねごとをさせていただいた。
父が、要介護状態にならず、元気なままコロリと逝ってしまっていたら今頃どんなに後悔していただろうかと思う。
「父親は敵だ」とばかり思って、体に触るどころかまともに声もかけずに過ごしてきた。
パーキンソン症候群になり、次第に体が思うように動かせず、介助が必要となった。
仕方なく、小学生の時以来に体に触れ、抱き上げたり、座らせたり、トイレでお尻を拭いたり、風呂で背中を流したりさせてもらった。
親孝行とまではいかなくとも、わずかばかり世話をさせてもらったことで自分なりにやったと、自分を許せることができている。
もしかしたら父親は、死んでから息子が後悔して自分を責めないようにと、あえて病気になってくれたのではないかとさえ思う。
そのように、老人が身を晒し身を委ねるのは若い者に慈悲心を養わさせるための捨身施なのだろうと受け止めます。
なので「若い者に迷惑はかけたくない」と思うのは間違いです。
多少苦労はしても、苦労から学ぶことはたくさんあるのだし、苦労しないことが幸せだとも言えません。
だいたいにして、親の介護や看病を迷惑だと思わせるような社会はおかしい。
親の世話を人任せにしてしまって後悔している人もいるのではないですか。
わざわざ望んで介護状態になる必要もありませんが、たとえなったとしても、それは若い者に我が身を提供しているんだ、この体を使ってどうか徳を養ってくれよと、思ってみたらどうでしょう。
若い者もきっと後から、よくやったと自分を褒め、許し、楽に呼吸ができ、自信を感じることにもなるでしょう。
お世話させていただいたことを感謝するに違いないと私は経験上思います。
さて、本日から大相撲名古屋場所です。
佐渡が嶽部屋の琴櫻は大関3場所目となります。
優勝、横綱への足掛かり、と期待が膨らみますが果たしてどうでしょうか。
ファンには申し訳ないですが、私は若干懐疑的です。
体も大きい、柔らかさもある、技もある、しかし優勝、横綱にはそれだけでは足りないと思っています。
相撲はいわば格闘技です。
その中で勝ち上がっていくには、強い気持ちが不可欠です。
琴櫻は父親似で性格が優しい。
立ち合いの最後の塩で鬼のような形相をするのも弱い心の表れで、自分を奮い立たせているのでしょうが、あんなことをしたらかえって体にいらぬ力が入って自然体でとれないでしょう。
体が自然に反応するためには意識がどこかに集中していてはダメです。
心の重心を下げて腹の座った相撲をとればいいのにと思うところです。
あの顔をやめれば自然に勝てるようになるかもしれません。
ですからむしろ、私は琴櫻には、勝っても負けても相撲ファンに愛される心の優しい人格者の大関として長く務めてもらいたいと願っています。
たとえ横綱にならなくてもです。
そうは言っても、観ている方は力が入るんですよね。
私の予想など大外れであることを心のどこかで祈りながら。
今週の一言。
「勝つことだけが相撲じゃない」
今週はここまで。また来週お立ち寄りください。
>先週に引き続き・・・... への返信
「介護は、自然体で」うまい!今週の一言はこれでしたね。
介護のこと、相撲の自然体のこと、どちらも我が身に沁みました。
特に、自然体のこと(力を抜け!)にはズシリとしたものが・・・、「退董した私ができることは」とキョロキョロしている今の私に必要なことなのでしょうね。
ありがとうございました m(_ _)m
私なりに、まとめてみました。
「介護は、自然体で」