Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

お盆・道州制

2009年08月13日 22時09分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 お盆になって、水害・台風・地震と続いた災害もひと段落(となってほしい)。ようやく夏らしい陽気となったものの、突然の暑さには体がついていくのは大変。秋になればたまったストレスでガタが来ないか心配でもある。
 セミがようやくの暑さに、鳴き声を一段と高く強くした。
 しかし夏の暑さも冬の寒さも、割と好きな方である。カンカン照りの下で汗を流しながら散歩するのは気持ちがいい。
 この20年ほど、袖無しやランニングシャツで日に当たると蕁麻疹様の発疹がでる。Tシャツや半袖ならば薄手でない限り大丈夫なのに。20年ほど前に釣り船で背中を火傷するほど日焼けして三週間ほどうなったことがある。それ以来発疹が出る。
 さて世の中、総選挙で騒がしいがどうしても気になることがある。道州制、いつの間にか地方分権の切り札、あるいは全国知事会の方針のような形になっている。そして東国原も橋下も松沢も麻生も口をそろえて道州制・道州制と騒がしい。しかし道州制と何なのか?彼らから具体的な道州制のイメージは出ていない。しかも道州制ならば今の都道府県の権限は当然縮小されるのが前提であろう。
 知事連中が自己否定ともとれる道州制にこだわる理屈と道州制のイメージが、伝わってこない。類推するに、政令指定都市が一挙に増加(埼玉・新潟・静岡・浜松・堺、予定が相模原・岡山)し、それらの地域ではほとんどの都道府県の権限が政令市に下ろされて都道府県知事・議会の影響力が小さくなっていることが考えられる。
 中核市の誕生も同じ枠で考えられる。そうなると政令指定都市の権限と道州の権限との関係はどのように想定されるのだろうか。知事が芸能化されればされるほど、地方自治が開かれて行って良い方向になっているとは思えない。
 パフォーマンスでマスコミイメージが先行し、住民にとっての具体的なイメージが示されないまま、というのはあまりに危険な流れと思うのは私だけだろうか。どうも知事の権限後退に対抗して、道州制という新たな枠組みで、現パフォーマンス好きの知事の自己保身、道州制という新知事への転進可能な連中の自己保身が透けて見えるといったら穿ち過ぎだろうか。
 本来ならば、もっともっと市町村の権限強化が議論されたり、今の過疎化の進む地方都市・地方の課題が真剣に論議されてしかるべきではないだろうか。歴史性も無視し、人口増での財政上の当面のメリットばかりに目が行く水増し広域化の市町村合併が一段落したが、はたしてなじみの薄い新都市名と水ぶくれ広域化で住民の一体感が醸成されるとは誰も信じていない。
 福島・仙台の往復で車窓に見える荒れた水田・畠、さびしげな駅前の商店街、めったに来ない路線バス、廃屋があまりに多く目に付く既存の温泉街、少し山里に入れば、まさに荒れた田畑、廃屋が続くのは、単なる不況の所為ばかりではないであろう。これらの状況をもたらしたのは老齢化ではない。これは結果であって、原因ではない。地方を駄目にしたのは、中央政府の施策ばかりではなく、過去のダメ知事にも当然責任の一端はある。そして負の地方自治の遺産(中央から金を取ってくること、投資の枠づくりが仕事であったかつての都道府県の役割)に対して、タレント知事にでも票を入れざるを得ない住民の地方自治に対する閉塞感を、自分の能力の高さと勘違いしているタレント知事連中が、いっそう事態を悪化させている。
 ハコモノ主義を凌駕する地方経済(当然農業を含む)の自立・活性化を体系立てて突き出す方途が問われていると思う。これは広域の道州制ではなく、現政令指定都市の経済の牽引力・吸引力を利用するのも方途のような気がする。もっとも北海道は札幌への一極集中が極端化してしまっているが‥。
 とりあえず、本日はここまで。