幸福実現党のごたごたについてもう一度、私なりの判断を書いてみる。
途中まで全国で立候補をすると決めておいて、突如すべてから撤退すると指令し、下部の反対を受けて今度は立候補を絞って継続するとのことが、報道された。
確かに膨大な資金を投入してきたと思われる。選挙事務所・仕立てた選挙カーも膨大。一人の立候補者に運動員6名くらいが着いている。供託金も膨大であろう。数十億の金がすでに拠出されていることは想像できる。それでも十分宗教団体としての宣伝はできたと思われる。
しかしその割りに情けないドタバタ、素人集団の右往左往である。
このドタバタ、右往左往としか見えないが、頂点の指導層の政治に対する考えがいい加減、無責任であることの証左である。こんな政治思想の政党に議席の一端すら与えることは到底まずい。
私のつたない20歳の頃の経験から、選挙という仕組みには魔物がいる、というのが社会党時代からよく言われていた。
そして20年ほど前からいろいろな人間の選挙にかかわっているが、そのとおりだとあらためて思っている。
地域の方というのは優しいし、面と向かっては党や政策の批判は避けている。だから、候補者や運動員が声をかけたり、手を振れば手を振ってこたえてくれたりするし、握手を求めると「がんばってね」という挨拶が返ってくる。ビラも笑顔で受け取る。特にその地域に選挙事務所などを構えたら、地域の方は寄ってくる。差し入れもしてくれる。それを「支持してくれている」と誤解をしてしまう。
地域の方は「立候補するなんて大したもの」という敬意をまず表してくれるし、もしも当選したら「前から支持者でしたよ」との大きな顔ができるというしたたかさもある。
そして膨大な事務作業(選挙事務所の確保、運動員のローテーション、選挙カーの造作、うぐいす嬢手配、ポスター貼り、公選はがきの宛名書き、支持者名簿の地図落し、選挙カーの巡回コース作成、個人演説会会場手配・動員、ビラ作成、ビラ配布者手配、他候補陣営との駅前確保の折衝、駅立ちの動員・応援演説者との日程調整、捨て看設置、推薦団体へのお礼周り‥‥ウンザリするほど)をこなしているうちに、「これだけこなしたんだから○千、いや△万票は確保できたかな」と妄想がどんどん膨らんでいく。日常生活では味わえない開放感や幻想がどんどん広がっていく。
選対の三役(特に事務局長・同次長)や後援会長には、常に客観的に政治状況を把握した上で、ここの手綱捌きが求められる。候補者と、若く経験の浅い運動員には、毎日「舞い上がるな」「厳しい」と押さえ、自分の見込みの1/3、1/4の票を耳打ちしながら、それでも落ち込ませずに投票日まで待ちこたえさせることが求められる。
40年前の新左翼の行動隊や突撃隊、学生部隊に対する党派指導者の力量が問われたのと同じような事態でもある。当時はその手綱捌きとは無縁の「指導者」ばかりであったし、同時に直接行動の時代だったから余計、そのような規制は困難でもあった。現場主義とでもいうのでろうか。
私が学んだこととして、「「政治指導者」とは現場や最先頭で苦闘する仲間との信頼がなければ成り立たないこのような手綱捌きができる指導者(独裁者やカリスマとはまったく違うタイプ)が必要であることと、現場では現場の判断で突出することも指導層の思惑も超えた行動や行動原理が働くのであるから、このことの結果責任も引き受ける度量が求められる」というこの二点がある。
現場でともに行動する仲間や支持者からの期待されればされるほど、開放感がたかまり、日常性からの離脱(非日常性の日常化)、生活をめぐるさまざまな課題・困難からの遊離感が麻酔のように効いてくるものだ。
このとき、
① もっとも良くこの行動に殉じてそして日常生活に着地する回路を自らのものにできるか、
② 徹底した討論と納得のもと行動の規制を内外にキチンと説明しおさめるのか、
③ このような舞い上がりを放置した挙句、あらかじめ既知のこととしてこの行動そのものを否定的に収斂するか、
④ 闇雲にすべてに頬被りをして現場の思いを切り捨てて、指導者の延命・組織の温存に腐心するか、
政治思想、集団に対する指導が鋭く問われると思う。
もっともダメなのは④であるし、③も④に通じる。よく「清濁併せ呑む度量」といわれ、いまではやくざの親分に求められるといわれる。しかし政治だけに限らず、あらゆる組織に当てはまる言葉だと思う。
幸福実現党、選挙にかかわると決めたときから、撤退も含めて想定をしていないと、立候補し、具体的に選挙の先端にいる人間にはどんな「客観的な情勢」と、金と人とエネルギーの無駄を説いてもそれは無理というもの。
おそらくとてつもない惨敗の末、内部抗争、上層部への不信が一挙に噴出し組織が解体していくと思われる。これを避ける方法として、
・オウム真理教のようにカリスマ性の強化と、批判勢力への攻撃を強め敵をどんどん作り出しながらいわれのない攻撃をする方法か、
・わずかな内部での軋みを極限までに拡大し内部抗争を強め、求心力を維持するか。
のいづれかしかないと思う。
いづれも部外者の私どもには迷惑なはなし。内部抗争の果てに自滅してほしいものである。
途中まで全国で立候補をすると決めておいて、突如すべてから撤退すると指令し、下部の反対を受けて今度は立候補を絞って継続するとのことが、報道された。
確かに膨大な資金を投入してきたと思われる。選挙事務所・仕立てた選挙カーも膨大。一人の立候補者に運動員6名くらいが着いている。供託金も膨大であろう。数十億の金がすでに拠出されていることは想像できる。それでも十分宗教団体としての宣伝はできたと思われる。
しかしその割りに情けないドタバタ、素人集団の右往左往である。
このドタバタ、右往左往としか見えないが、頂点の指導層の政治に対する考えがいい加減、無責任であることの証左である。こんな政治思想の政党に議席の一端すら与えることは到底まずい。
私のつたない20歳の頃の経験から、選挙という仕組みには魔物がいる、というのが社会党時代からよく言われていた。
そして20年ほど前からいろいろな人間の選挙にかかわっているが、そのとおりだとあらためて思っている。
地域の方というのは優しいし、面と向かっては党や政策の批判は避けている。だから、候補者や運動員が声をかけたり、手を振れば手を振ってこたえてくれたりするし、握手を求めると「がんばってね」という挨拶が返ってくる。ビラも笑顔で受け取る。特にその地域に選挙事務所などを構えたら、地域の方は寄ってくる。差し入れもしてくれる。それを「支持してくれている」と誤解をしてしまう。
地域の方は「立候補するなんて大したもの」という敬意をまず表してくれるし、もしも当選したら「前から支持者でしたよ」との大きな顔ができるというしたたかさもある。
そして膨大な事務作業(選挙事務所の確保、運動員のローテーション、選挙カーの造作、うぐいす嬢手配、ポスター貼り、公選はがきの宛名書き、支持者名簿の地図落し、選挙カーの巡回コース作成、個人演説会会場手配・動員、ビラ作成、ビラ配布者手配、他候補陣営との駅前確保の折衝、駅立ちの動員・応援演説者との日程調整、捨て看設置、推薦団体へのお礼周り‥‥ウンザリするほど)をこなしているうちに、「これだけこなしたんだから○千、いや△万票は確保できたかな」と妄想がどんどん膨らんでいく。日常生活では味わえない開放感や幻想がどんどん広がっていく。
選対の三役(特に事務局長・同次長)や後援会長には、常に客観的に政治状況を把握した上で、ここの手綱捌きが求められる。候補者と、若く経験の浅い運動員には、毎日「舞い上がるな」「厳しい」と押さえ、自分の見込みの1/3、1/4の票を耳打ちしながら、それでも落ち込ませずに投票日まで待ちこたえさせることが求められる。
40年前の新左翼の行動隊や突撃隊、学生部隊に対する党派指導者の力量が問われたのと同じような事態でもある。当時はその手綱捌きとは無縁の「指導者」ばかりであったし、同時に直接行動の時代だったから余計、そのような規制は困難でもあった。現場主義とでもいうのでろうか。
私が学んだこととして、「「政治指導者」とは現場や最先頭で苦闘する仲間との信頼がなければ成り立たないこのような手綱捌きができる指導者(独裁者やカリスマとはまったく違うタイプ)が必要であることと、現場では現場の判断で突出することも指導層の思惑も超えた行動や行動原理が働くのであるから、このことの結果責任も引き受ける度量が求められる」というこの二点がある。
現場でともに行動する仲間や支持者からの期待されればされるほど、開放感がたかまり、日常性からの離脱(非日常性の日常化)、生活をめぐるさまざまな課題・困難からの遊離感が麻酔のように効いてくるものだ。
このとき、
① もっとも良くこの行動に殉じてそして日常生活に着地する回路を自らのものにできるか、
② 徹底した討論と納得のもと行動の規制を内外にキチンと説明しおさめるのか、
③ このような舞い上がりを放置した挙句、あらかじめ既知のこととしてこの行動そのものを否定的に収斂するか、
④ 闇雲にすべてに頬被りをして現場の思いを切り捨てて、指導者の延命・組織の温存に腐心するか、
政治思想、集団に対する指導が鋭く問われると思う。
もっともダメなのは④であるし、③も④に通じる。よく「清濁併せ呑む度量」といわれ、いまではやくざの親分に求められるといわれる。しかし政治だけに限らず、あらゆる組織に当てはまる言葉だと思う。
幸福実現党、選挙にかかわると決めたときから、撤退も含めて想定をしていないと、立候補し、具体的に選挙の先端にいる人間にはどんな「客観的な情勢」と、金と人とエネルギーの無駄を説いてもそれは無理というもの。
おそらくとてつもない惨敗の末、内部抗争、上層部への不信が一挙に噴出し組織が解体していくと思われる。これを避ける方法として、
・オウム真理教のようにカリスマ性の強化と、批判勢力への攻撃を強め敵をどんどん作り出しながらいわれのない攻撃をする方法か、
・わずかな内部での軋みを極限までに拡大し内部抗争を強め、求心力を維持するか。
のいづれかしかないと思う。
いづれも部外者の私どもには迷惑なはなし。内部抗争の果てに自滅してほしいものである。