明日は天気が悪いらしい。しかし午前中は整形外科で診察とリハビリ。午後は打合せと会議。夜は何回か目の新年会という名の、単なる飲み会。神奈川県は蔓延防止という扱いではないが、大人数での会食は避けつつ、数人ずつに別れて、静かに飲むことになりそうである。
ひょっとしたら明日の朝には雪、ないし霙の可能性があるらしい。これ以上の積雪は勘弁してほしいと思うが、どうにかなるものでもない。雪に振り回される鉄道・道路・警察・電気・水道・学校・ゴミ収集・郵便等々の多くの職場のかたは大変であろう。もう降らないでほしいというのが本音だと思う。
いっぽうで雪が降らなければ冬の気分にならないという人もいる。雪の風情楽しみたいという気分は私にもある。現役を離れるとかえっていろいろな欲求が押し寄せてくるものらしい。
本日は「世紀末芸術」(高階秀爾、ちくま学芸文庫)の第2章を読み終わった。いつものとおり気になったり惹かれたりして付箋をつけた箇所を覚書として引用する。
「二十世紀の若い芸術家たちは、(1889年のバンコク博覧会時に建てられたエッフェル塔)に素晴らしい技術の成果を見る前に、まず美の表現を見たのである。この事実は、技術がきの技術に徹することによって、新しい造形表現を生み出す可能性を持っていることを物語ると同時に、少なくともエッフェルにおいては、建築と技術は明らかに別物と考えられていたこともはっきりと示している。」(第2章「世紀末芸術の拝啓」 2「機械文明の発達」 「技術者の登場」)
「批評自体が芸術作品と同じ価値を持つ独立した存在であり得るというボードレールの主張は、そっくりそのまま、世紀末の異才ワイルドに受け継がれる。‥ボードレールがいわは批評をせめて詩や絵画と等価値のものにまで引き上げようとしたのに対し、ワイルドはさらに進んで、批評を《創造の中の創造》と予備、芸術の中でも最も高い位置を与えようとする。‥世紀末芸術が何よりもまず新しい芸術理念を求めたことと、批評がこのように事故の優位を確認したこととは、けっして無縁ではない。」(第2章「世紀末芸術の拝啓」 3「ジャーナリズムの繁栄」 「批評活動の隆盛」)
「批評がこのように性格を変えてくれるにつれて、その発表の形式もおのずから変わらざるを得ない。‥1880年代の後半頃から、文学、絵画、建築、装飾等、芸術のあらゆる領域にわたって、続々と新しい雑誌が創刊され、単に一般公衆への手引きとしてではなく、むしろ芸術家仲間に強力な指導理念を訴えるための批評活動が行なわれるようになった。‥まことにこの時代は、西洋全体にわたって驚くべき豊かな文芸活動が強力に推進されていたのである。」(第2章「世紀末芸術の拝啓」 3「ジャーナリズムの繁栄」 「美術雑誌の登場」)
「さまざまな異国の風物の中で、ひときわ目立って人々の注目を呼んだのは、極東の太陽の国、日本であった。‥しかしその影響の仕方は、それぞれの場合で非常に異なっていた。単に異国的な主題に興味を惹かれたフラックモンやゴンクール兄弟のような愛好者もしれば、何溶離もその明るい色彩に見せられたゴッホのような画家もいた。ドガは日本の版画の巧みなデッサンと新奇な構図に感銘を受け、ゴーガンはさらにその平坦な色面配合に啓示を得た。‥世紀末芸術そのものへの影響としては、‥ひとつは新しい感受性の発見であり、もう一つは流麗典雅な曲線模様と鮮やかな色彩配合とによる豊かな装飾的表現である。‥世紀末芸術の華やかな開花の裏に、東と西とのこのような思いがけない出会いが秘められているのである。」(第2章「世紀末芸術の拝啓」 4「遥かな国・遠い国」 「ジャポニスム」)
本日は久しぶりに喫茶店で45分ほどの読書を行なうことが出来た。喫茶店の中は少し室温が低かったがかえってそれが良かったのかもしれない。
「世紀末芸術」(高階秀爾)の第2章を読んだ。
晴着を来た新成人の幾人かとすれ違ったが、その晴れやかな顔には私などは違和感を感じながら、これが現代の姿かと実感した。
年寄りの小言・愚痴とされるのは承知しているが、私のころは総中産階級と言われつつもまだ生活の格差は大きく、晴着を注文できない仲間が多数いた。着飾った成人式に対しては当初から私は違和感を持っていたし、成人の門出に行政や政治家にとやかく言われたくない、という思いが強烈にあった。「成人」という認証は、あくまでの家族の中で、地域の中で承認されることであって、国家や行政に偉そうな顔をされたくなかった。そういう風潮であった。その思いはいまだに持っている。
若い人たちが、今の国家や行政に対してどのような考えを持っているのか、知りたいという思いと、知っても交わることはないのかなという諦念が同時に私の中に存在する。これは多分墓場まで引きずる違和感だと思っている。