本日電車のつり広告で「新庄剛志「自分に勝てれば誰に負けてもいいんだよ」」というフレーズが目についた。
私は特に新庄剛志氏が嫌いなわけではない。特に好きでもない。ただ、現役時代の氏のプレーにはあの過剰なパーフォーマンスの是非は別として「花があった」という肯定的な印象は持っている。
さて私がどうしても気になるのは、どうして現代といわず人々は「勝ち」「負け」にこんなにこだわるのだろう、ということである。スポーツ競技に関わる人も、応援団もそこにこだわる。スポーツに限らず「勝ち」「負け」という価値基準がどうしても理解できない。
「人に勝つ」とはどういうことなのだろう。
「私よりも優れた知識・思考力等を持っているので何とか凌駕したい」というのが「勝負」というのだろうか。
しかし「他人」を仮想敵として認定しないと自分自身の向上が測れないのだろうか。それは人としてとても情けなく、そして不幸なことなのではないか。
私は中高の体育の教師から、「他人に勝つことで自分を高めることができる」と言われ続けて、いつも「違う」と心の中で叫び続けてきた。根拠となる論理立てはできなかったが、感覚的に絶対にそんなことはない、と叫び続けてきた。
私は「勝ち」「負け」という判断基準をいったん取っ払ってみることを実践してきたと自負している。こういう価値判断を離れると、とても自由でのびのびとした世界が広がってくる。
人の価値はひとつのことでは測れない。さまざまな側面を人は持っている。自分より優れたものを他人の中に見つけることの方が楽しい。そのほうが人を十分に観察できる。そして冷静に自分の欠点を多面的に見つめることができると思う。他人に対する評価が多面的となり、コミュニケーションも豊かになること、間違いない。
さらにまた「自分に勝つ」というのは、どういうことをさすのであろう。わかったようで具体的なことは私には想定もできない。気持ちの向いたもの、好きなこと、興味のわいたことに忠実にまい進すればいいだけの話である。「寝たい・楽をしたい誘惑に負けずに頑張る」ことに価値があるわけではない。時間が限られた課題は別にして、十分に休養しながら頭を柔軟にして目標に向かえばいいだけの話である。
スポーツ、成績‥何事につけ何か敵を想定しないと前に進まない、自分を高めることができないという思い込みを捨てる地平というのはなかなかいいものである。昔「書を捨て街に出よう」というフレーズが流行った。私は「勝負という概念を捨てて人とコミュニケーション」したいと思い、実践してきたつもりである。
結果がどうだったかはわからないが、十分に今は幸せである。「勝ち・負け」と「幸せ・不幸せ」は同じものではない。「勝ち・負け」という判断基準から自由になれば、「幸せ・不幸せ」という概念も違ったものになると思う。
このことはまた別の機会に長々と書いてみたい。