Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「椿の海の記」から 3

2020年06月24日 22時42分36秒 | 読書



「ものをいいえぬ赤んぼの世界は、自分自身の形成がまだととのわぬゆえ、かえって世界というものの整わぬずうっと前の、ほのぐらい生命界と吸引しあっているのかもしれなかった。ものごころつくということは、そういう五官のはたらきが、外界に向いて開いてゆく過程をもいうのだろうけれども、人間というものになりつつある自分を意識するころになると、きっともうそういう根源の深い世界から、はなれ落ちつつあるのにちがいなかった。人の言葉を幾重につないだところで、人間同士の言葉でしかないという最初の認識が来た。無花果の実が熟れて地に落ちるさえ、熟しかたに微妙なちかいがあるように、あの深い未分化の世界と呼吸しあったまま、しつらえられた時間の緯度をすこしずつふみはずし、人間はたったひとりでこの世に生まれ落ちて来て、大人になるほどに泣いたり舞うたりする。そのようなものたちをつくり出してくる生命界のみなもとを思っただけでも、言葉でこの世をあらわすことは、千年たっても万年たっても出来そうになかった。」(第8章「雪河原」)

「だまって存在しあっていることにくらべれば、言葉というものは、なんと不完全で、不自由な約束ごとだったろう。それは、心の中にむらがりおこって流れ去る想念にくらべれば、符牒にすらならなかった。地の中をもぐってどこかに棲み場所を持っているおけらとか、空にむかって漂いのぼる樹木の花粉とかになって、木の中石の中からゆく道をゆけば、どこに出るのだろう。けれども(地獄絵に登場する)青鬼というものには逢いたくない、突然おもう。鬼というもののみじめさはかなわない。人間はなぜ、自分のゆきたくない世界を考え出すのだろう。それから私は、あっと思いあたる。鬼たちよりも、それを考えだす人間の方がむざんなのだと。」(第9章「出水」)

 今回の引用は石牟礼道子の独特の考え、思惟というよりも、あるいみ世に普遍的な思考にたいする独特の「表現」と思った個所である。第8章、第9章の通奏低音である。
 幼い女の子の意識と目をとおして、言葉の世界の不思議を独特の言い回しで表現しようとしてもがいてもいるような、ねっとりとした文章である。

 このようにして女の子は「子ども世界」から次の段階に移行するために、第9章末尾で水に流され、死にかける、という大人への通過儀礼に晒される。

 残りは第10章と第11章のみである。



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