国境なんて・・
国境なんてないにこしたことはない、なくしたい
国境なんてないほうが「戦」はおきない
人が作った国境なんてものは人の力でなくせる
だれもが心のどこかで思っていた
そんな時代が十数年間続いた ある
〇年〇月〇日の凍てる雪の日の早朝
人間の観念の作り出したものは
簡単にはなくせないものだと
冷たい虹とダイヤモンドダストの咆哮のもと
一瞬で思い知らされた
しかし、それでも
人が作ったものは人の力でなくさなくてはいけない と
あの一瞬から20年経たいまも
黒い汚泥とアスファルトの塵にまみれながら
もがきながら生きている
生き恥とはおもわない
それを願いながら、生死の境を
なんの躊躇もなく超えるのも悪くない
この詩のような述懐は、今から30年ほども前に目にした。勤めてから知り合った友人Eがノートに書きなぐって、フイッと生死の境を軽々と超えてしまった。半世紀前の時代の空気をどこかで一緒に吸っていた先輩であった。
人は理不尽な死を強いられそうになった時、何かの意志で突出して社会と軋轢を生じ押し潰されそうになった時、視界には何が映るのだろうか。どんなことを思うのだろうか。文学や詩ではさまざまに語られている。明るい太陽光であったり、虹であったり、空の蒼や海の青であったりと自然の情景が駆けめぐると表現するものも多い。
そして生き延びたとしても、その後の生は緊張の糸が切れたように、砂を噛むような日々であったのであろう。
作者はまさにそのことを書いている。追憶としてその情景が脳裏に残っているのだろう。
生と死を飛び越える一線をどんなに拡大し続けても、生と死の断層は画然としている。「遷移」というものが想定されない。またそう考えるしかない。
生と死は、一瞬の相転移であるらしい。水から氷への相転移が常に一瞬であるように。人は多くの場合、この一瞬がある時間の長さを持っているように思いたいのだと思う。そこに「宗教」というものが入り込んで体系化しようとする。信じ込ませようとする。一瞬の相転移が人間の観念によっていつの間にか一挙に「永遠」の長さに転換する。
そんな「永遠」を拒否をして、人は砂を噛んで生きている。いつ一線を超えてしまうか、自分でもわからないまま、トボトボと歩いている。