Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

インフルエンザワクチン

2024年11月11日 21時54分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の午前中はパソコンルームに設置する小型のガスファンヒーターを業者が搬入してくれた。これまでよりも少しだけ大きかったのは予想外。すぐに部屋は温かくなった。運転の目安は室内温度が20℃未満となった時。
 午後は、親と妻とともにインフルエンザの予防接種。昨日からの雨も上がり、太陽が顔を出し始めてからワクチン接種の病院に出向いた。行きはタクシーを利用したが、帰りは親の調子も天気もともに上々ということで、ゆっくりは歩いた帰宅。少し歩く自信が着いたようだった。妻と私はそれぞれ2300円、私の親は無料。3人合わせて4600円。
 8回目の新型コロナのワクチンの同時接種も可能と言われたが、親の年齢を考え、それは来週以降に受けることにした。新型コロナワクチンは一人3000円と言われている。

 


「田中一村展」から 2

2024年11月11日 20時56分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 1947年、田中一村は川端龍子主催の青龍社展で《白い花》が入選する。このとき小下図の段階で、同社の時田直善氏が指導し、「細かく描き込まれた画面を整理」したとの指摘があったとのことが「もっと知りたい田中一村」(東京美術)に記されている。ここでも仮面にびっしり描き、空間の処理に戸惑っている田中一村の画風が短所として指摘されたようだ。
 展覧会場でもこの作品の前には人だかりがしていた。しかし私はどうしてもなじめなかった。原因は二つある。一つ目は白色の処理。二つ目は鳥の位置の問題。
 白が浮き上がってこない。葉の緑のほうが勝っており一見「白い花」は背景の空間かとすら思える。白の顔料の問題なのだろうか。
 また鳥も緑の葉に隠れており、位置も下側にあり、そのまわりの空間まで緑で埋まり、存在感が薄い。むろん実際の鳥はそうたやすく広い空間に身を曝すことは少ないかもしれないが、構図上のバランスはあまりに悪い。
 しかし、田中一村はこの入選は自身も記念碑的な作品と捉え、同じような作品をいくつか描いている。取り上げたのは8年後の1955年の作品であ。
 こちらのほうが一般的には「洗練された」ということなのであろうが、確かに白が浮き出て見える。花の緑は前作に比べ少しくすんでおり、白を際立たせている。白い花はヤマボウシ一種だったものが3種の白花になっている。
 また鳥が大きくなり、中央の上に移り、その周囲の空間が確保され、存在感が大きく増している。左半分の空間が空いて、左上から右下への対角線の流れが自然である。
 終戦直後からこの時期まで、30歳代末から40歳代後半のこの頃は、構図、彩色の点で大きな飛躍があったと感じた。一方で違和感もある。鳥の姿は動きを想像させない。残念ながら剥製の鳥のようである。



 翌年、一村は再び青龍社展に《波》(所在不明)、《秋晴》出品し、《波》が入選するも、自信のあった《秋晴》が落選。これに抗議し、入選を辞退し、川端龍子のもとを去る。
 図録では「川端龍子は日本画を床の間から展覧会場へと解放し、繊細巧緻な表現よりも「健剛の芸術」を目指し・・大画面に合法な筆致で、クローズアップの構図とする傾向が強くあった。《秋晴》では金屏風にシルエットで樹々が大胆に表現されたものの、枝葉の表現や軍鶏の姿などは緻密で、情景はもの悲しく、龍子の「健剛」とは相容れないものだった」と記している。
 また「もっと知りたい田中一村」の解説には「速水御舟の描く構成されたケヤキの細い線、龍子はそれを受け入れなかった」という指摘があった。御舟と龍子の間の確執や作風の違いに翻弄されたというのは、穿ち過ぎの見方であるように感じる。私はもっと別な違和感をこの作品に感じた。
 それはやはり「白」の処理であり、軍鶏の動きの無さであり、無理な大根の配置であり、遠近感を無視したような建物の配置である。。
 まず《白い花》での「白」の扱いは田中一村も不満足ではなかったのではないか。画面でとりわけ目立つ「白」の描き方に画家なりに自負があったのかもしれない。しかし私にはあまりに唐突で無理な白の強調に思えた。干している大根はこんなには白くはない。もっとくすんだ白である。
 しかもケヤキの細枝は折れやすい。こんな細い枝に大根を干すであろうか。しかも高さが高すぎる。人間の手では届かない位置に干している。現実感が喪失している。ケヤキはこんな下にこんな枝を伸ばすことは無い。そして軍鶏には動きがない。
 ケヤキの幹などは厚く顔料が重なり、質感に苦労している。樹木以外にはその質感へのこだわりが感じられなかった。
 総じて現実感を「喪失した」というよりも「喪失させた」画面構成に、仏画の流れからの一村の「浄土」のイメージを想定するのは飛躍であろうか。
 もう一つの所在不明の《波》がどのような作品なのか、わからないが、《秋晴》のような方向以外の方向を模索を始めたのだと理解したい。



 1953年の《花と軍鶏》の襖絵までに田中一村は軍鶏の写生を執拗に繰り返した。伊藤若冲のように写生に明け暮れたらしい。精緻な軍鶏である。しかし私の視点では、動きが感じられない。一村のように細密画のような描き方で動きを感じさせるというのは至難の業であるらしい。

 この時期には、空間を埋め尽くしてしまう、という点では余白を十分意識する描き方になって克服したように思われる。しかし引き続き一村は「対象物の動き」「色彩のバランス」「遠近」「余白などの空間処理」等々の課題に直面し、克服しようということにはかなり自覚的であったのではないか。この解決に向けて努力と模索が続けられたのではないか。
 50歳を過ぎて、一般的には完成の域に達するといわれた年齢を過ぎても、奄美に移り住み、一気に花開く直前まで努力が続いたと感じている。

 私はこの執拗ともいえる模索と持続におおいに惹かれる。