田中一村は40歳代の1950年代は日展や院展に出品するも落選を繰り返す。その間に軍鶏の写生にのめり込んだり、カメラを始める一方、1955年に聖徳太子殿の天井画などに一定の成果を出す。
天井画や襖絵などの植物画、そして障壁画の墨絵などにも迫力があり、惹かれるものがあった。
その間に千葉を出て、九州・四国などの旅を経て、奄美に定住する。この1955年は画業の画期と思われる。
画期と私が思うのは、写真から近景と遠景のひとつの処理の方法を得たと思われる。普通はボケ味で近景と遠景の差を出すのだが、ピントには頼らず、近景を大きく、遠景を覗くように近景から広がるように描いている。
さらに私がこだわっていた「白」の処理が大きく変わった。前回「白い花」の改作で、白が際立つように描かれるようになったが、「ずしの花」でも「山村六月」「由布嶽朝靄」(1955年)でも花弁、雲、水田の「白」、葉の「緑」のグラデーションが際立っている。雲の白に埋没しない花の白が美しい。
写真から学んだと思われるが、奄美での写真と比較するとよくわかる。
1958年以降、奄美に移り住むが、ここでさまざまな工夫が一気に開花したように思える。
まずかなり縦長の構図にこだわり、近景を思い切り大きく描き、遠景の広がりを強調するようになる。覗き見るような遠景はかえって広々と開放的な印象を与え、鑑賞者の意識をホッとさせる効果がある。これもまた人気のひとつではないだろうか。
さらに「白」が近景に際立つように配置され、花弁の色とともに「光」を兼ねるようになる。花弁や蝶にスポットライトがあたっているような「白」はきわめて印象深く、人を惹きつける。
また鳥に少し動きが出てくる。動かない剥製のような軍鶏の作品から脱却し、鋭く鳴く鳥、飛び立とうとして力を溜めているようなアカショウビンなど、動きを切り取っている。この鳥の動きが鑑賞者の目を画面に引き寄せる効果があるのではないか。
異時同図のように花々の蕾から萎れるまでの姿を同じ画面に表現するなどの工夫も見られる。
ここに掲げたのは私の印象に特に残った6点。
《パパイヤとゴムの木》(1960)、《奄美の郷に褄紅蝶 》(1968)、《アダンの海辺》(1969)、《不喰芋と蘇鐵》(1973以前)。《榕樹に虎みみづく》(1973以前)、《檳榔樹の森》(1973以前)。
4点目は遠景がないものの背景の灰色が遠景の代用かもしれない。花の様子から花が咲く直前から実をつけて項垂れるもでの異時同図と思われる。
5点目は、頂点のみみづくには動きはないが、左下の鳥の鋭い眼と鋭い鳴き声が聞こえそうな動き、右下のスポットライトの当たったような白い花が印象的。遠景が小さいものの海の広さが充分に感じられる。
6点目には遠景がないものの、下と左上の白い花で、森の奥深さを感じさる。
奄美では若い頃のように魚やエビをクローズアップして画面いっぱいに詰め込んだ作品もあるようだが、これは作品としては成功していないように感じた。
田中一村という画家、川端龍子のもとを去ったときはなかなか頑固で不遜であったかもしれないが、自己の克服すべき課題について客観的に自覚をしていたのではないだろうか。その克服に長い年月と、美術界からの遠い「距離」が必要だったと思える。その自分なりの回答が奄美移住とその直前でもたらされたと思えた。