先ほどは中学・高校のころの美術の先生のことを少し振返ってみた。私はどうも学校に馴染めない性格のようで、小学校4年生以降、いつも力あるものに諂う教師の存在と、彼らへの違和感が次第に増幅していった。
中学・高校と一貫のミッションスクールだったが、中学一年から、国語・数学・理科各科・美術の授業には割と馴染めた。音楽は歌わされること以外はおもしろかった。英語は馴染める教師と馴染めない教師が両極端で自分でも嫌になり、途中で放り出してしまった。今でも語学への苦手意識は強烈である。
教科の好き嫌いと教師との肌合いはとても大事であるが、相関関係からずれている場合も多々あった。英語しかり、日本史・地理、地学など。日本史・地学はおもしろいと思ったが、教師とは馴染めなかった。
地理の教師は中学一年末に提出をさせられた課題を高校三年になるまで、その教師の机の下にほこりにまみれたまま放置された。6年間続けて「いつ返却してもらえるのか」と聞くたびに嫌な顔をされ「そのうち」と不愛想に返答された。卒業後に教員室にいったらその提出書類の山は消えてなくなっていた。生徒にさんざん苦労させて作らせた課題をゴミのように扱う教師に心底腹が立った。
世界史は楽しく学ばせてもらったが、日本史はあまりに重箱の隅をつつくような授業で、性に合わなかった。体育は中学1年のしょっぱなからダメという烙印を勝手に押されたことが6年間尾をひいた。
一番おもしろいと思ったのが、現代国語である。教師はかなり個性の強い教師が多く、お互いにあまり仲が良くなかった。しかし私はどの国語の教師にも好感をもった。一人の教師は読み込みの感性が鋭かった。もう一人は自分の考えを押し付けることなく、生徒同士の意見をとことん議論させて、生徒に気づきをさせることに力点をおいていた。
「議論」と自己主張に自信を持つこと、自分の意見が修正が必要な場合はそれを取り繕うことなく表明することの大切さを教えてくれた。古文の老教師も印象深かった。新古今和歌集の魅力を教えてもらったことが今でもありがたいと思っている。
体育教師4人からは、押さえつけることの無意味さ、軍隊の教練のように管理する側の身勝手さを反面教師として、嫌というほど味わった。朝ギリギリで登校する生徒の前で鉄の門扉を締め始め、足を取られて転びそうになる私などを、門扉を押しながら笑って見ている体育の教師の顔はおぞましかった。そのような体育の教師におべっかをいう他の教科の教師のあまりの卑屈さに反吐が出そうであった。
ブラザーの半分は、カナダで貧しい生活脱出のために修道院に入り、日本で一旗あげようという山師的なブラザーであった。教育の理想に燃えたブラザーでも、鼻持ちならぬ「遅れた日本人」という色眼鏡で我々を見ている者もそれなりにいた。尊敬できるブラザーは中学生の私でもすぐに見分けがついた。
カナダ人の校長は私の嫌いな教師を擁護すること、かなり露骨であった。そのカナダ人校長を日本から追い出したことで、労使紛争は好転した。
残念だったのは、物理の先生が私の卒業後、ほどなくして亡くなってしまったこと。まだまだ若い先生であった。大学合格直後と一年後にご自宅におもむき、保健室の先生であった若い看護師のお連れ合いも交えてビールを飲んだのが忘れられない。数学の先生には担任としても、進路相談でもずいぶん世話になったが、労使紛争の勃発直前に亡くなったと聞いた。私の支援活動で恩返しがしたかったと思ったものである。議論をさせてくれた国語の先生は労組の委員長をされていたが、紛争が勝利した直後に亡くなられた。
そんな学校もずいぶん変わったと聞く。あんな管理教育のお化けのような教育体制ではないようだ。もう59年から54年前の話である。