本日は「18.示寂」と「19.西行と定家」を読み終えた。
有名な西行の一首を引用している。
★願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月の頃 (山家集)
著者も記す通り、西行の死よりも10年も前に編まれた「山家集」所収であるから、所謂辞世の歌ではない。
しかし実際にこのような時節に亡くなったという。1190(文治六)年2月16日、73歳での死である。
西行の死に接して交流の深い歌人の歌が並べられている。
★願ひおきし花の下にて終わりけり 蓮の上もたがはざるらむ 俊成
★望月の頃はたがはぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しな 定家
★君知るやその如月といひおきて 詞におくる人の後の世 慈円
このようにして西行伝説は生まれていった。著者も「日頃の願いを詠み置いたものと解釈」「誠実に生きた人生の、まさに大団円というべき終焉」(18.示寂)と記している。
しかし私は、昨日のようにこの「願はくば花の下にて・・」の一首にも、「現実過程」と「西行の理想」の落差、どろどろとした現実に苦闘する西行の像をより強く想像してしまう。
現役時代も、退職後も日々の人々との軋轢や、組織のしがらみの中でもやもやしながら、深夜にふと「死ぬときくらい、こんな死に方にあこがれるな」と漏れ出てくるため息に似た「願はくば花の下にて・・」ではないだろうか。
たまたま終焉がそうであったとは、うらやましいのひとことである。大団円などとは違うのではないか。
実は、昨日引用した歌についても慈円の哀悼歌を引用している。
★風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな 西行
★風になびく富士のけぶりにたぐひにし 人のゆくへは空にしられて 慈円
定家も慈円も知っていたのではないだろうか。西行という人格が伝説化されるだけの力があること。その根拠は、死が日常化しているような災害と争いの時代に、現実の政治的な諸関係の格闘の中で、ふと漏れたため息のような歌群を作り続けたこと。武家と貴族・天皇、源・平・奥州藤原の複雑な関係を豪胆にかつ手玉に取るように躱し続けた力技が多くの人をひきつけていること。
これらが合わさって臨終の様が伝説化されていく必然について十分承知していたと思われる。定家の「紅旗征戎 我がことにあらず」(明月記)という強い決意ながらも、定家自身は後鳥羽院政に振り回され、承久の乱に遭遇し、御子左家の家の確立に奔走せざるを得なかった。
そんな定家と西行は似通っているという視点を私は持っている。西行は「我がことにあらず」とは言わなかったが、遁世しつつ現実過程を正面から引き受けたように推量している。それが最晩年では奥州への旅となり、頼朝との駆け引きであったのではないか。
こんな思いを数十年ぶりに思い出している。