筆力の無さで伝えられないもどかしさを抱えながら・・。
★黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし 西東三鬼
歌謡曲の世界なら、津軽海峡や宗谷岬の冬の最中に何かを叫ぶ時もあろう。だがこの句、梅雨の合間の生暖かい風の中で、叫びたい衝動にもかかわらず、対象の人が声にならない。心のうちで叫んでいるのだろうか。あるいは叫びたい衝動はあっても、自らの空虚にたじろいでいるのかもしれない。「叫ぶ」ということ、ドラマやお芝居では当然の感情表現だが、実際にそのようなことはほとんどは出来ない、またしないものだ。
ある年、20歳を過ぎたばかりの私達は思い切った行動に出た。私達の世界を観念の中だけでなく、現実の空間として。だが、そこに出来たのは空疎で空虚な、暗黒の空間だったのではないかという思いに50年近く経っても囚われている。それは私たちの世代の体験だけではなく、多分どの世代にもあり得た体験だった可能性は高い。
人の行動の後ろには、常に空疎で空虚な、そして黒々とした情念の世界がついてくるように思える。だがそれは決して空疎でも空虚でもない。混沌なのである。その混沌を共同の観念の力で、あるいはそれぞれの自己の営みの中で形あるものにするのが、人の「生」である。それを為すので時間に耐える、という覚悟と自覚である。私も含めてその時点ではそのことに無自覚であったことは否めない。
当時、そのもどかしさを真冬のビルの屋上や夢の中で叫ぼうにも叫ぶことの出来なかった私が今、ここでへろへろと生きている。ただし当時から今まで、頭を垂れることだけはしなかった。したくなかった。
これが「無惨な半世紀」であったのか、今もこだわる「何か」なのか。ただ言えることは半世紀前と同じく今も、安易に叫ぶことは私はしない。同時にこれからも過去を無かったことにはしない。