引続き「野哭」におさめられている「流離抄」(1945.5~1946.7)から。1946年の春の句を今回はいくつか。
★草蓬あまりにかろく骨置かる
★粥腹の木の芽に向くやまぶしけれ
★大いなる雪解の中に生きて逢ひぬ
★春の雲石の机は照りかげる
★闇市に隣る野授業雁帰る
★野蒜つむ擬宝珠つむただ生きるため
★米尽きし厨に春の没日かな
★春愁の釦の一つ色ちがふ
第1句、詞書によると義弟の遺骨が還った日の句。あまりに粗末に扱われる命、それに対する憤りが「かろく」に表れている。第4句、第5句は大井町あたりの焦土で小学校が青空学校として始まったときの句。第2句、第6句、第7句は戦後の食糧難を詠んだ句。
私の生まれた1951年はすでに戦後6年、だがものごころついた小学校入学直前から低学年にかけて、函館市や川崎市では戦没者の遺骨を仏壇に供えていた同級生や近所の家も多くあった。お墓に納骨するゆとりもなかったのだと思う。あるいは箱の中には遺骨はなく戦地の石ころだけが戻ってきていたのかもしれない。
闇市も身近にまだ残っていた。級友のなかには給食だけが食事という子もいたし、来ている上着の釦が全部そろっている子がほとんどであった。そんな戦後の状況が1962~3年、小学校高学年になると急速に消えていったように私には思えた。
戦後の混乱期は私には身近な記憶として残っている。そして1960年代半ば以降も、都市のなかで眼をこらせば、敗戦と朝鮮戦争、冷戦、ベトナム戦争の影は何処にでも色濃く見つけることができた。横浜では、空襲の傷跡も、「進駐軍」の姿も、米国人居住地の日本人立ち入り禁止看板も林立していた。
戦争の傷跡を人の心の中に、或いは都市の景観の中に見ようとすればその意志に従って見える。見える風景はその意志によってかわるものである。見ている風景と見える風景は違うことが多々ある。