本日までに読んだ「近代絵画史(下)」(高階秀爾)は、第13章「世紀末絵画」、第14章「ドイツ表現主義」、第15章「マティスとフォーヴィズム」、第16章「フォーヴの画家たち」まで。
この本では、マティスとヴラマンクの評価が高く、ルオーともどもそれなりの言及があるのはうれしい限りである。下巻は多くの画家を取り上げているので、ひとりひとりは紹介だけのような記述が多いが、この3名とドランについては多くを費やしている。
「マティスが優美な様式のなかにそのままとどまっていたとしたら、そこにある種の安易さが生まれてくることは避けられなかったであろう。20年代になって、世間一般の賞賛を受けるようになったマティスにはその危険があった。だが、自己の本質に忠実でありながら、新しい表現を求めていくマティスは20年代末ごろからさらに新しい飛躍を示すようになる。大胆なデフォルマシオンによる線のアラベスクの効果と、思い切った色彩の対照によって、装飾的であると同時にもにゅメンタルな構成を実現することであった。」
「フォーヴの仲間たちのうちで「野獣」というイメージに最もふさわしい画家を上げるとすれば、モーリス・ド・ヴラマンクがその人である。‥そのエネルギーをカンヴァスの上に放出するためにのみ画家になったかのような人であった。‥ヴラマンクだけが粗野なまでの色彩の不協和音と誇張された集かいな表現によってドイツ表現主義の画家に近いものを感じさせる‥。アカデミックな権威を故意に無視しようとする彼の反抗的意志に由来する‥。彼が公然とその影響を認めた先輩は、もうひとりの独学の画家であるヴァン・ゴッホだけであった。」
「ルオーは可能な限り激越な手段によって、あらゆる人間の心の奥底にひそむ悪を白日の下にさらけ出そうとするのである。しかしルオーのこの激しい表現主義も、第一次大戦以降、次第に落ち着いた、静かな世界へと移っていく。おぞましい人間のかわりに、神や聖女が登場し、風景も優しさを取り戻す。‥どこか哀愁のこもった静かな風景、優しい人間的感情、憐れみと諦め、魂の高貴さなどを暗示する静謐な人間像が画面の主役を占めるようになる。」
実は私はマティスは好きであるが、その生涯や作品の変遷が記憶に残っていない。2004年の国立西洋美術館での展覧会の図録を見ながら、もう一度勉強のしなおしが必要だと思う。この記述を受けて、マティスの生涯をせめてこの時の図録で追ってみたいと思う。
ヴラマンクについては、1989年の日本橋三越での「没後30年ヴラマンク展」と、1997年のBukamuraザ・ミュージアムでの「ヴラマンク展」に行っている。1989年の時に初めてヴラマンクの名を知った。展覧会では、一見セザンヌやルオーのような風景作品を見たのち、1950年以降の激しいタッチと嵐の前のような不気味な空、それらに翻弄されるような地上の人間の作った家屋や道の表現に圧倒された。それ以来、激しい画家の情念が叩きつけられたような画面に魅入られている。
また、ゴッホの向日葵を彷彿とさせる、花瓶の向日葵を含む花の連作も激しい内なる情念をそのまま映したようで好きである。
ルオーについて高階秀爾の指摘である「おぞましい人間のかわりに、風景も優しさを取り戻す。哀愁の籠もった静かな風景、優しい人間的感情、憐れみと諦め、魂の高貴さ‥」という記述について、少し異論がある。あくまでも私の感覚では、もともと「優しさ」も「哀愁」も「諦め」もルオーは生涯変わらずに秘めていたと思っている。どこか思想が転向したのではなく、ルオーの中では一貫している。私はその「一貫している」ことを強調したい。そうしてルオーの作品を私は見ることにしている。
ルオーの描く孤独な「道化」や「キリスト」、あるいは「哀愁」こそが社会と格闘したルオーの原点であったと思う。
この4つの章では、カンディンスキーやブラックなども出てくるが、マルクやベックリンの名も出てきた。名前は知っているが、作品をそれぞれここに掲げられている各1点しか知らない。できれば、作品集を見たいと思った。