「演奏家が語る音楽の哲学」(大嶋義実、講談社選書メチエ)の最後の部分の覚書・引用を忘れていた。
著者は第3章「音楽に表れるのは個性か普遍性か」で「オーケストラという音楽の器」がどうして世界を席巻して普遍的な音楽の器となったか、という疑問というか設問を自ら課した。
「オーケストラをつくるそれぞれの楽器は、‥オーケストラの楽器となるために、その(楽器の)生まれた土地でしか通用しない音楽上の語法を放棄しなければならなかった。不確かな音のゆらぎや、独自の音律、割り切れないリズム等はすべて排除された。共同作業を滞りなく行うためには、その内容を誰にでも合理的に説明できることが不可欠だ。それはものごとを効率的に処理する現代社会の掟でもある。」
「それぞれの楽器はその故郷を喪失しなければならなかったのだ。「誰のものでもなくなったがゆえに、すべての人のものとなった」というパラドクスである。」
「母国語の怪しい人物がどれほど外国語を学んでも、そのことばの理解におよぶことはなかろう。自らの生きる地域に育まれた文化に誇りを持たない心が、見ず知らずの文化に敬意を払うことなどできるはずもない。‥音楽を奏する上でも同じことだ。己が音を持たない者に、時代も国も違うヴァリエーション豊かな作品を演奏できるバスもなかろう。故郷を失ったがゆえに価値中立的な響きを得た楽器がオーケストラに必要とされる理由がそこにある。オーケストラは街に育てられる生き物だ。出自を消した音の道具が集まればこそ、その街に暮らす音楽家たちならではの色合いがそこに反映される。きっとそれはその共同体を育んできたひとびとの匂いともいえるものだ。それこそがその街、その国、その民族独特の響きを湛える各地のオーケストラサウンドの秘密だ。‥一人一人の奏者たちがどのようなふるまうのか、いずれ考えてみたい。」
粗削りな言い回しに思えるが、そしてそのままでは矛盾も感じるものの、私自身のことばで言い換えながら咀嚼してみたいと思った箇所である。
第5章「響かせること、響きを合わせること」では演奏家の立場でのオーケストラ論を展開している。
「皆で一つの音楽を奏でながらも、奏者は孤独を生きる。孤独を引き受けながらもなお、その音楽家たちが調和を希求する、というパラドクスにおいてオーケストラはの持つ本質は浮かび上がる。‥ヨーロッパ近代という限られた地域と限られた時代に誕生したオーケストラが、地球規模で広まり、世界の各地に定着した秘密もまたそこにある。」
「もしも成員の全員が一分のすきもなく、与えられた役目に同じことをする社会が実現したら、それはとりもなおさず、あなたがあなたである必要はなく、私が私である必要のない社会を意味する。‥そんな非人間的社会で、ひとがいきいきと、各々の役割を果たせるとは思えない。‥ひとびとを魅了してやまないオーケストラの響きは、音楽観が違い、美意識が違い、正否の基準が違う奏者たちの多様な価値観から生みだされるものであったようだ。個性ある音楽家ならではのずれが一つずつ重なることによって、オーケストラは初めて魅力ある音を奏でることが出来る。「いったんその席に座ったものは断固として、その人間の責任で音楽を作らねばならない」という言はじつはオーケストラからの「あなたの代わりになる奏者はどこにもいない」という呼び声‥。」
この本、「演奏家」の立場で語られる箇所が実に生き生きとして、惹かれる文章が並ぶ。時として私にとっては説明不足の箇所もあるように思うが、それを補って私なりに咀嚼したくなる。刺激を受け、考えさせられた本であった。