夕食後、少し元気が出てきたので、「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)の第4章「法然門下の諸思想」の後半を読んで過ごした。
「法然門下の議論が普遍的な問題と連関していることを示すために、キリスト教のカトリックとプロテスタントのルターがこの問題をいかに論じたか、見てみることにしよう。(両者は)神と人間との関係の理解については違いがある。(神の)恩寵と(人間の)自由意志の問題は、キリスト教思想自然体を貫く根本問題の一つである。ルターは恩寵の働きを強調し、人間の自由意志が救済において果たす役割を否定した。絶対的な神の働きに対して、人間は徹底的に無力であるとした‥。人間の医師による行いがいささかでも神の恩寵にかかわると考えるのは、人間の思い上がりである。人間は信仰によって救われるのであるが、信仰そのものが恩寵による。それゆえ、人間の意志は自由であるどころか、全面的に神に依存する存在だというのがルターの主張である。恩寵と自由意志の問題は、同じ宗教・教会の中でも繰り返し問題提起がなされて議論されてきた。絶対者と人間はどのようにかかわるのかという論点が、いかに根本的で微妙な問題なのかが推察できる。」
「浄土教での議論とキリスト教の神学では異なる点も少なくない。とはいえ共通点も多い。浄土教においても、絶対者の力、阿弥陀仏の本願力が最初に置かれる。」
「法然の場合、恩寵と自由意志の問題に対比させれば、他力と念仏を起こす人間の意志との関係に対応させることができる。浄土往生はすべて他力にまかせなければならない。法然の教説は、自らの働きと仏の働きが協働することを説いているといってよかろう。」
「浄土宗(鎮西派)では念仏を称えることはすべて他力である。念仏に自力と他力があるという考え方は間違っていると批判している。親鸞と證空は、念仏にも自力と他力があると解く。意志的に称名念仏を繰り返すことによって救われるのではない。一切のはからいを捨て仏にまかせなければならないというのが両者の主張である。」
本日は引用のみで終了。