あまり読書は進まず。
「大岡信 架橋する詩人」の第2章につぎのような著者の言葉があった。いろいろと議論はありそうな指摘ではあるが、とりあげてみる。
「六〇年安保の衝撃が六〇年代詩を生み出し、六〇年代末から七〇年代初めの大学紛争という「政治の季節」が七〇年代詩を生んだ。この時期に日本の詩は、近代以来の抒情性や調べの世さ、「一編の作品としての形式および主題における完結性といった、それまで価値を持つとみなされた要素が転倒され、本質的な見直しを迫られたと思われる。その代償として、一般に現代詩は難解となり、極端にいうと、詩人以外の人々を寄せ付けない物となった。八〇年代の私にとっても、近代詩のような「分かりやすさ」はそこにはなかった。‥勝手な解釈も含めて、独特な「読む面白さ」があるにはあった。」
まず画廊を経営していた志水楠男の死を詠んだ「高井戸」全編を引用しているが、私の知っている後半だけを取り上げてみる。
(前半略)
舵・櫂・エンジン・綱・帆・ 帆柱
これらほど頼りにならないものもなかつたとは。
ひでえもんだ、でもいいももう。おやすみ。
もっともよく戦った者だけが、もっとも深く
眠る権利を有するのだ。おやすみ。消える友よ。
六〇年安保の衝撃について、次のように述べている。
「安保闘争は詩壇にも衝撃をもたらし、「六〇年代詩人」と呼ばれる一群の詩人たちが出現する背景ともなった。‥大岡より数歳年少の人々である。大岡が与えた表現によれば、「現実認識が詩的行為であり、詩的行為がそのまま現実認識である世代の誕生」だった。彼らの手で近代以来の詩的表現は根底から解体されたといえる。以後しばらくは、ラジカルな実験性と暴力的なまでの鮮烈さや疾走感こそ「最先端の詩」の特徴となった。」
大岡信自身の言葉として次のような引用がされていた。
「ここで紹介する五人の詩人は、いってみれば〈広島以降〉の世代にぞくしています。‥ひとつの都市、そしてひとつの文明そのものの完全な破壊ののちにしか、平和というものを知ることのできなかった世代です。‥[日本の敗戦]は同時にアメリカ軍の占領の開始であり、疑わしい平和の開始でした。‥この疑わしい平和のイメージ、人がそこに到着する前にすでに前もって破壊されてしまった平和のイメージが、日本の現代の若い詩のすべてを支配しています。」(大岡信「眼・ことば・ヨーロッパ」)