Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「近代美学入門」第3章から

2024年01月18日 21時45分53秒 | 読書

   

 「近代美学入門」(井奥陽子)の第3章から。気になったところを引用してみる。
 「いくら言葉を尽くしても理由を言い当てることが出来ないのが、美しいという感情です。何かを純粋に美しいと感じることはは、それが何であるか(概念)や何のためにあるのか(目的)にもとづいていない、とカントは言います。」(第4節)
 「普遍性を実際に持つわけではないけれども、普遍性を要求する、というのが美の特徴です。道徳も感覚も美も、心地よい感情を引き起こします。しかし道徳は客観的で、普遍的です。感覚は主観的で、普遍的ではありません。美は主観的であるにもかかわらず、普遍的であるかのように私たちは期待します。」(第4節)
 「カントの主観主義美学の功績は、美を道徳から切り離したことにあります。道徳的によいものが美しくそうでないものは醜い、という美が善に従属する関係が否定されました。・・・真と善と美が対等に並べられるようになり、このフレーズが人口に膾炙したのは、19世紀のこと。カントは道徳だけでなく、美の条件とされることが多かった機能性や有用性からも美を解放し、美の自律性を強調した。・・・・美の自立性は、19世紀をとおして強調されていきます。フランスとイギリスの文芸を中心に「唯美主義(耽美主義)」と呼ばれる潮流が生じました。」(第5節)
美の自律性は、芸術の自律性に直結します。芸術の自律性とは、芸術が道徳や宗教や政治などに縛られないことを言います。・・・・美や芸術の自律性が主張されるようになったのも、たかだか250年前のことです。そうした価値観が近代の産物であるということに自覚的であったほうがよい、ということです。」(第5節)
しかしながら、主観主義美学に基づいた美の自律性がときに常識か普遍的真理かのように語られることは、近代美学史に携わる身としては危うさを感じる。まず、美の政治性について。美や芸術に携わる人は、どのような場面であっても政治や道徳に無関心でいてよいのでしょうか。美を理由にすれば何でも正当化されるのでしょうか。もうひとつ指摘しておきたいのは、私たちが何を美しいと感じるかは、後天的に方向づけられる部分があるという点です。その感じ方は文化や制度によって形づくられる可能性があります。美の感じ方は、社会的に形成された規範が無意識のうちに内面化してしまっているものではないか。それが自身や他人を苦しめるものになっていないか、振返ってみても良いかもしれません。」(第5節)
 以上第4節と第5節から長々と引用した。

 何かが欠落している。ようやくモヤモヤが少し形を作って見えてきた。
 第1点目、それは「鑑賞者の主観、そして多くは直観によって美として判断されてしまう」ことへの違和感である。誰もが初めてある作品に接したときに、「どこが美しいのか」という違和感を持つ場合がある。特に古代や近代以降の作品などを見たときに思うことが多々ある。
 不思議なことに、それらの作品も幾度も見ているうちに気に入って「美しい」と思うようになる場合や、作品の時代背景、作者の思いを知ることで、「美」として認識する場合がある。これは「社会的に形成された規範が無意識のうちに内面化した」事例とは違う。
 普遍性を、鑑賞後に手繰り寄せて、体得してから「美」として感じるとい迂回路があるはずである。
 第2点目、芸術の政治性についてである。本書ではナチスのプロパガンダ映画「オリンピア」を作成したリーフェンシュタールについて、上記のような批判を記載しているが、翻ってピカソの「ゲルニカ」や、ゴヤの「マドリード、1808年5月3日」などの政治性の強い作品についてどう評価するのか、も問われる。私はピカソやゴヤの作品に「普遍性」への強い意志を感じると同時にそれを獲得している作品として評価をしている。美が主観や直感だけではなく、人間が生み出した国家や政治、戦争というものとの確執を普遍的なものとして今も見せ続けている迫真力に人は感動すると思っている。一方で時代背景がわからなければ、理解できないこともある。「オリンピア」にはそのような普遍性への志向はどうだろうか。感じ方はいろいろである。
 この2点に注目しながら、これからの第4章、第5章でどのように筆者が回答しようとしているか、着目して読み続けたい。

    



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