スポーツにはほとんど興味がないし、目も疲れさせたくないし私には、オリンピックの中継漬けのテレビは電源を入れる気もない。40型のテレビは昔の25型だった以前のテレビよりは目の疲労は少なくて、最近はニュースと科学番組、短時間の番組、時代をえぐろうという意欲のありそうな番組を時々は見ていた。
しかしこのオリンピック漬けはマスコミの情けなさを感じる。どのチャンネルを回してもオリンピック競技ばかりでは国策放送しかなかった時代と同じである。「感動」の押し売りのお調子者の「解説者」とアナウンサーの饒舌は私の嫌悪感を増大させる。競技数が多いから、当然チャンネル数も必要というが、それならばオリンピック専門チャンネルでもつくって、「日本」だけでなく、すべての競技者を平等に扱え、と毒づきたくもなる。そのためにはチャンネル数が足りないことは認めるが。
何しろ、スポーツというと小学生・中学生・高校生のころの体育の嫌な授業しか思い出せないので、きわめて強い嫌悪感と拒否感が先に立ってしまう。体を動かすことが楽しいと思えるようになったのは、25歳のころから始めた登山と、ひとりでジョギングを始めた30歳の時である。10歳から18歳までの負の体験から本当の意味で自由になれたのは12年も経てからである。それでも「人と競う」ということと「団体競技」というものがどうしても解せない。
オリンピックの放映よりも昔の番組や映画を流したほうがまだ視聴率も、そして現在の放送に携わる人間の勉強にもなろうと、余計なおせっかいを言いたくもなる。
こういう時は読書三昧か、好きなCDでも聴いているのが精神的にもいいことは承知をしているが、何せ細かな字を今は限定したい。編集作業をこなさなくてはいけないので、気分的なゆとりもない。
愚痴とパソコンのキーボードに八つ当たりをして、イライラを解消するしかない。
少しでも気分を落ち着かせようと、編集作業のお供の音楽はモーツアルト「ピアノ三重奏曲」。フェルメールの作品に惹かれ、そして安価なので演奏の評価も調べずに購入した。1988~89年の録音。ピアノはワルター・オルベルツ、ヴァイオリンはカール・ズスケ、チェロがマティアス・プフェンダー。
私にはそれぞれの楽器が明確な輪郭でバランスよく調和している、と感じている。
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