一服中にかえってイライラ。イライラを溜めるのはよくないので・・。
やはりどう考えても間違っている。内閣総理大臣というのは大統領でもまして王でもない。一人で決定する権限などないはずである。民主主義の基本、あるいは人と相談して、手続きを踏まえるということが理解できていない人が、内閣の首班であることに私はどうしようもない違和感、そして拒否反応を示してしまう。
今回の「桜を見る会」、確か数日前には「閣議」で「公的行事であり、意義あるもの」という答弁書を決定をしている。これは実施することを前提とした「決定」であるはずだ。ところが昨日にはその「閣議決定」を閣議を経ずに「私の判断で中止」と平然と表明している。
「閣議」で決定したものを覆すのは「閣議」である。行政府としての最高意思決定は「閣議」である。内閣総理大臣であっても内閣の一構成員である以上、一人の判断でこの「閣議決定」を覆すことはできない。
総理大臣としては「中止の方向で「閣議」に諮りたい」というのが本来の筋である。民主主義、憲法の規定の基本中の基本が理解できていないのが、今の総理大臣というのがあまりにひど過ぎはしないか。これだけで総理大臣の視覚はない。他の国務大臣もずいぶんと軽視されたものである。他の大臣から閣議をないがしろにしている、という批判が出てもおかしくない。
マスコミの記者もそこでこの手続きの無視について質問が出来ていない。テレビの解説でもそこに触れていない。日本の民主主義、そして憲法の規定が政治家だけでなく、報道する側、報道を受け取る側からも守られていない。憲法を踏みにじるものは何も現政権を支えるとんでもない政治家や取り巻きや、瀬無責任な支持者だけではなく、日本全体を取り巻く政治への無力感と諦念なのではないか。
議事録の改竄・捏造、国会答弁の不誠実、質問・疑問の無視、手続きの無視、政策決定者への忖度、利害関係者への利益誘導の公然化等々、旧来の政治へのアンチが間違った方向へとどんどん傾いていく。 これはどうしても許すことができないやり方である。
この「会」は1951年以来の「伝統」ある「会」だそうである。総理大臣一人の判断で中止できる「伝統」とはまたとても軽い「伝統」である。「伝統」を重んじる「保守」政党のトップとも思えない。
私は、「花見」そのものを否定はしない。そしてあのような「会」も否定はしない。
ただし私はあのような落ち着きのない花見は嫌いである。花見は近しい人とのんびりと楽しむものだと思っている。政治的な枠組みや「国家」などが出張ってくるような花見は好まない。招待されること、参加することが見得やステータスシンボルとなるような花見は「桜」に失礼である、と私は思う。
何とか引きづり下ろしたい‥。
桜に失礼ですね。
こうやって税金というものは好き勝手に
使われているのだと思います。
腹ただしいです・・・