Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「弥勒」(宮田登)第2・3章

2023年08月31日 23時03分12秒 | 読書

 夕方から投稿できなくなり、慌てた。ようやくアップできるようになったようだ。

         

 午前中は「弥勒」(宮田登、講談社学術文庫)の第2章と第3章を読了。

「上生」という言い方は明らかに〝往生〟という考え方である。往生は人間のほうで浄土へ行くことを希望するわけである。ところが「下生」のほうは、人間の世界が浄土のレベルへと変化していって、すばらしいユートピアになると考える。‥「上生経」と「下生経」では、「下生経」のでは叙述の仕方からいうと「下生経」のほうがはるかに豪壮、雄大な世界として描かれている。‥「上生経」のほうが「下生経」の後に生まれてきたのではなかろうか‥。」(第2章)

中国の場合には、弥勒信仰が民衆反乱という形をとる。民衆運動と結びつくケースが多い。‥未来仏である弥勒が世に現れてくるという、メシアニズムに基づくものである‥。現実の世界にユートピアが実現できるということは、中国でさらに書く大して受け止めらていた‥。‥動乱期に現れた弥勒仏の性格はすさまじい破壊者として存在している展が特徴であった。‥まず転輪聖王が出現して、その後弥勒仏となる。つまり弥勒仏の単独出世ではないのである。転輪聖王は俗的支配者である故に軍事力を具備し、敵を軍事的に征服する力をもっている。

古代朝鮮の場合は、弥勒仏は支配者側の中に出現したのであるが、王権の力が弱まってくると、逆に一般民衆の中から弥勒下生を名乗るものが現れて、反乱を起こすという形がやがて次々に展開する。
 ここの展開は少し理解できないことがある。中国と古代朝鮮との違いは理解できても、それ以降についての違いについて論理が理解できなかった個所であった。

日本の場合には、弥勒仏の化身であるということを称する存在は明確なものではない。不幸とか災難が来たときに、それを防ぐための呪術的な役割としてしか、豪族たちが仏教を受け止めていない点が明らか‥。

日本には、弥勒を軸とする宗教運動としての反権力的な構想と行動を伴った弥勒信仰が、明確ではない‥。個人的な現生利益と結びついているほうが強い。‥権力との対立抗争といっさいむずびついていないいうことが顕著である‥。」(第3章)
 日本については「権力との対立抗争になぜ結びつかなかったのか」というところが疑問として残っているが、これ以降の展開でどのようになるか、注目して読み進めたい。
 



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