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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の俳句(100914)

2010年09月14日 21時50分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★秋の蚊にさされ足元よろ這いぬ
★秋の蚊の闇に這い寄る痒さかな

 弱々しいもののたとえでもある秋の蚊であるが、刺すときはさすがにすばやい。 帰宅途中あやまって芝生に足を入れたとたん、ズボンの裾から忍び込んだ蚊に刺された。こちらがあわててよろけた。痒さは夏より強いのか、あるいはびっくりした分、痒く感じるのか。秋とともに歳を感じた一瞬であった。

本日の俳句(100913)

2010年09月13日 19時12分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★虫鳴いて庭の奥行きその先へ
★虫の闇野の遠近の定まらず
★虫の音に惹かれて歩み滞る

好きな句
☆万の翅見えて来るなり虫の闇(高野ムツオ)

 厳しい残暑に気をとられているうちに、夜7時近くともなるともうすっかり暗くなる季節となった。闇というにはまだまだの時間ではあるが、電柱の防犯灯の下を歩いていると深夜と勘違いするほど虫の音が大きくなってきた。
 一句目、昨晩窓越しに虫の音を聞いていたが、虫の音が思いのほかに遠くに聞こえ、庭の広さが感覚がなくなった。
 二句目・三句目、昨夜の気分を引きずったまま、本日は帰宅の途中で虫の音に心を惹かれた。決して多くはないが何匹かが遠く近くに鳴いていると確かに遠近がはかれなくなるものだと思った。また原の奥行きが広く感じられた。

心の中の対話

2010年09月12日 12時07分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
心の中の批判者A「君はいったいいつからそんな世捨て人のようになってしまったんだい。君のいう現実過程から程遠い世界を楽しんでいるようだね。」

心の中のわたしB『別に世捨て人を自称しているわけでも、それを無理して仮面をかぶっているわけでもないよ。もともと好きだったんだから。好きに理由もないし、人に言い訳することもないしね。』

A「しかしだよ、団塊の世代直後の後退戦とやらをいつも引き受けて、世の中の苦悩を一身に引き受けたような真面目な顔をしていた君が、そして組合役員の君が、まるで引退して何もかも放り出したみたいだ。」

B『体調は悪いことは悪いが、「後退戦」の役を放り出したつもりもないよ。現にまだ役員だし。次代の人にどのように引き継ぐかはまだ結論が出ていないけどね。あと一年とちょっとでどうなるか。後退戦は闇の中でも表の役回りでも同じさ。ただし、これらの役回りからまったく切り離された世界をここでつづっているつもりはないよ。どこかで繋がっているよ』

A「長谷川リン二郎、高島野十郎の絵の評論を載せたかと思うと、香月泰男を持ち上げる。土門拳の報道写真家としての真髄である筑豊などは無視して、古寺巡礼にこだわる。伊藤恵のシューマニアーナが突如評価され、アトランダムにクラシック音楽が取り上げられる。白川静の次は中井久夫。俳句と謡曲。そして古代史・中世史の新書のたぐい。ブログを読むほうは何がなんだかわからない。君という人間はほとほと一貫性がないね。」

B『人間なんてものはもともと一貫性の動物ではない。これだけというたった一つの価値観しか持たないなんてありえない。どこかの政治党派のように「一貫して」が口癖・お題目の唯我独尊で実際の足取りは右往左往千鳥足なんていうところとは違うからね。』

A「個人の思想の水準と、政治集団の共同性の水準をごっちゃにしてはいけないというのが君の口癖なのに、今の結論はおかしい」

B『ハハハ、そのとおり一本取られたね。しかし君がいった「一貫性のない取り上げ方」自体が、私には一貫性を持ったものかもしれない。学生時代から一貫して時代の後退戦の矢面に立たされているという自覚とともに、同時に新古今和歌集を片手に、もう片方に吉本隆明を抱えて集会やデモに居た自分は今でも続いているという点でね。人間はさまざまな思考・志向・指向・嗜好・嗜好とを持ち、試行を繰り返しながらよろよろと歩くもんだ、というのが18歳の時からの思いだ。癒されるからクラシックを聴くのではなく、聴いているときは音の世界に浸ることが目的で人生があるようにも錯覚している。俳句も謡曲も、古典の詩歌もみな同じだよ。万葉集を拾い読みしたり解説書を読んでいるときは、自分がプロの国学者やプロの詩歌作家のように錯覚して本気で、この句やこの句意を俳句に写してみようかと考えたりしているよ。私の中では皆ごちゃ混ぜでそれぞれに整理はついている。組織論と共同幻想の水準の解明というところでね。ただ回り道が遠いので自分でも中心がどこだったか時々わからなくなるけどね。クラシックと絵画はこれは純粋に趣味だな。』

A「では白川静と中井久夫はどういう関係だい?」

B『白川静は独力の論理の展開の強さがある。確かにあの人の論は飛躍があり、考古学的な裏づけが希薄と思われるものもある。だが説文解字という後世に書かれた聖書のような文献にとらわれず独自の推論を作り上げたことには敬意を表すべきだし、限られた中国側の考古学的な現状ではやむを得ないものがある。また日本の古代との比較研究も保留すべき点と共同幻想の水準から比較が成り立つものとの峻別が課題といえば課題かもしれない。しかしある意味マルクスの著作やダーウィンの著作のような執拗な肉薄の仕方は学ぶ点が多いのではないか。またそれが多くのファンを最近ひきつけている魅力ではないだろうか。流通している常識としての「説文解字」への違和は誰しもが持っているものだと思う。中井久夫は人に勧められて初めて心理学系統のものを読んだのだが、大学病院の責任者として組織として病院を作り上げた仕方を読み、地の通った組織論として参考になった。出会いの初めだ。他の著作ではその人柄に惹かれて読み進めてきたが、戦争論や政治論は勉強になる。あまりに客観的過ぎる全共闘運動論も逆の意味で勉強になる。主体論抜きの政治論としての不満は、主体的にかかわった人間が構築すればよいのではないかとあらためて思う。』

A「気持ちはわからなくもないが、さっき君が云ったごとく手を広げ過ぎて収拾つかなくならないのか?」

B『その通りの心配がある。年とともに守備範囲は狭くなる。収拾つかなくなる前に整理整頓しなくてはいけないと真剣に考えている。それがこのブログでもあるような気がしている。とりあえず今日はこの辺で勘弁してよ。』

A「俺もお前と同じ頭の中に巣食っているのだから、しょうがない。今日のところはこれで勘弁しよう。

謡曲集から

2010年09月12日 11時20分18秒 | 読書
 三日前には、「白楽天」「芭蕉」(身長日本古典集成下巻より)、本日は「実盛」と「西行桜」(同上巻より)を読む。
 「実盛」は木曾義仲が怒涛のごとく押し寄せる越前での戦いで討たれた平家方の老武者斉藤別当実森の執着を念仏にて解くもの。「むざんやな甲のしたのきりぎりす」(松尾芭蕉)もこの謡曲を下敷きにした句だと思う。
 西行桜は西行の「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」を下敷きとして、この歌意に不審を述べる。
 いづれも有名な謡曲だが、実際の演目では見たことがないのが残念である。

シューマンのピアノ曲2

2010年09月11日 18時38分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日の午後はゆったりとした気分で伊藤恵のシューマニアーナの2と3を聴く。実に極上の時間を過ごさせてもらった気分。シューマンの曲がこのように魅力的だとは知らなかった。特にピアノソナタ2番とパピヨンが耳に残った。
 芸術作品というのは、同じ作品でも受け取る側(聞き手、読み手‥)の心の状態でまったく受け取り方が違う。その作品が心に響くか否かはまったくもって受け取る側にもわからないという厄介なものである。
 歳とともに、気分によって、周囲の状況によって、季節によって、すべてが違ってくる。音楽が騒音に聞こえるときもあるし、詩がまったく理解できずに目で追うばかりになるときもある。厄介なものである。そのくせ、無視をするととたんにいろいろな作品が恋しくなる。
 1回聴いて、読んで忘れられなくなるものの、すぐには再度耳にしたくない、目にしたくないものもある。しかしある時間が過ぎると再び聴きたくなる。よいと思ったものでもすぐに再び味わいたくないものもある。
 シューマンの曲、まだ13枚のCDのうち3枚しか聴いていないが、ショパンと違ってメロディーが耳に残るというのではなく、短い曲であっても複雑な和音、重厚な構成そのものが耳に飛び込んでくるような感じがする。不思議な感じだ。この感じはどこからきているのだろう。演奏の特質ではないと思う。伊藤恵の演奏の特質は音符ひとつひとつを丁寧に扱っているような感じだ。そして女性の演奏にありがちな線の細さはなく、十分にピアノが鳴っているように思える。

本日の俳句(100911)

2010年09月11日 07時28分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★片腕に残暑むんずと仁王かな
★竹林に秋の入り日と木魚聞く

 昨日の夕刻、仕事の途中古い寺の横を通った。紋の仁王像の腕の筋肉が印象的であった。今年の強烈な残暑の中、握り締めた手に残暑をゆだねてしまいたいものだと感じた。
 庭にわずかなながら竹があり、読経の声が聞こえた。法事でもしているのであろうか。木魚の音を聞こうとしたが、そんなにとどまっては居られなかった。

昨日の読書(100909)

2010年09月10日 22時16分26秒 | 読書
「樹をみつめて」(中井久夫、みすず書房)

 著者のエッセイ集としては10冊目を読了。主な論考は「樹を見つめて」「戦争と平和についての観察」「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」の3篇。
 神谷美恵子は私は1冊も読んだことがない。が、「(彼女の父)彼らの武士倫理の喪失を防いだのは若き日に触れたキリスト教倫理であった。そのまた後継倫理が戦前のマルクス主義であって、高校・大学時代にこれに触れた人たちが高度成長を担った」との指摘や、戦後処理の中でのクエーカー教徒の果たした役割など、勉強になった。
 「戦争と平和についての観察」について云えば、客観的な流れそのものとしては説得力はあるし、私には新鮮でかつ納得できる視点である。しかし、求めすぎとは思うが、政治にかかわる主体の問題と大衆論の欠如がさびしいところ。それは主体的にかかわった側の論考を待つしかないのだが‥。
 「樹を見つめて」‥このようなエッセイを私も書いてみたいものだ。「植物界を人間と動物の活動の背景のようにみなしてきた。‥医学は人体を宇宙かの中心に据えた天動説生物学になりがちである。‥医学だけではない。自国からしかものが見えない傾向が強まっているのも天動説復帰であろう。時には植物の側から眺めると見えてくるものがある。‥無用にみえるものの存在を肯定すること自体が福をもたらすものであろう。」


本日の俳句(100909)

2010年09月09日 20時47分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★狛犬のはっしと受ける秋入日

好きな句
☆落ちてゆく重さの見えて秋没日(児玉輝代)

 久しぶりに30℃をきった秋日和。夕刻に見た小さな古い神社の狛犬が胸を張って夕日を受けていた。秋日和といっても昼過ぎは28℃、例年なら残暑の強い光線だ。赤みがかった夕方の強い陽射しをひとりでしっかりと受け止めているような力を感じた。


本日の俳句(100908)

2010年09月08日 22時03分55秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★白々と野分の川の土嚢積み
★野分去る家々の灯りにじませて

好きな俳句
☆颱風の心支ふべき灯を点ず(加藤楸邨)

 もうこんな不安な思いで台風に備える時代ではなくなったと思う。経験者も団塊の世代直後くらいまでか。台風というと雨戸を補強する槌音がして、合羽と長靴、蝋燭と懐中電灯を用意しラジオに耳を傾けた50年も前の小学生の頃が思い出される。

 さて、今回の台風9号の雨の直撃を受け、横浜の南西部も大雨が降った。時間雨量47ミリを記録した頃、私は同僚の車でその地点を通過していた。運転者は前が見えなくなり、道路の端により、しばらく様子を見て徐行しながら、駐車スペースを探して小降りになるのを待った。ごく当然の対応だったと思う。しかしそのような車は少なかった。

 本日最高気温がようやく30度以下となり、湿度はあるものの一息ついた感じだ。街中の樹木も生気をとりもどしたようだ。

空はすでに秋

2010年09月07日 23時39分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
好きな俳句
☆うつくしき世をとりもどすうろこ雲(鷹羽狩行)

 幾日か前の夕方、空一面のうろこ雲が見事だった。仕事の帰り際、思わず見とれてしばらく見上げていた。本日は雲は多くなかったが、しかし空の色と雲のようすはすっかり秋となっている。日の入りも18時位となり、17時半には夕方の気分。強烈な残暑、猛暑日にもかかわらずやはり暦は、季節はきちんと歩み続けている。
 台風が被害をもたらさず、乾ききった大地にめぐみの雨となることを説に願う。

シューマンのピアノ曲

2010年09月06日 21時20分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先日購入したドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」(カルミナカルテット)、私の好みとはいえない演奏だった。第1バイオリンが跳ねるような演奏で、楽器を十分に鳴らしていない。何某雑誌の特選版とは残念ながら恐れ入った演奏であった。
 ということでたっぷりと聞かせてくれる器楽曲はないかとレコード店を物色して、伊藤恵のシューマニアーナ12巻を見つけ、第1巻を購入(2,000円也)。
 シューマンのピアノソロの曲は始めて聴く。それよりもなによりも伊藤恵というピアニストが20年かけてシューマンの全曲演奏・全曲録音に挑戦していることは前から知っていたが、その執念というか、持続に敬意を払わなくてはいけないと感じていた。これまで値がはっていて購入には二の足を踏んでいたが‥。
 内田光子が、ベートーベンのピアノ協奏曲、同じくソナタ全曲録音、ショパンのソナタ全曲録音などをしていることを知っているが、ひとりの作曲家のピアノ曲全曲というのは、魅力的な企画である。
 早速クライスレリアーナ(作品16)、幻想小曲集(作品12)、幻想小曲集(作品116)を聴いた。
 なかなかじっくりと聞かせてくれ、飽きがこない演奏と感じる。彼女の演奏は、圧倒的な音量と超絶的な技巧でパワフルに聴衆をうならせるというものではなく、音ひとつひとつの響きを大切にしてじっくり聞かせるタイプと思った。もし協奏曲ならブラームスであろうが、このようなソロの演奏がふさわしいのかもしれない。確かにシューマンのファンになってしまいそうな気がする。ただしこのシリーズはシューマンの曲を初期から晩年まで年代順に並べたものではない。各巻ごとの選曲には伊藤恵という演奏者の思いが込められていると思うが、その記載がないのは若干さびしい。すべては演奏に込められているということなのだろうか。
 これは残り12巻も購入しないといけないようだ。

本日の俳句(100905)

2010年09月05日 17時55分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★訪なうは風と日ばかり秋の蝉
★赤競い西日に向かう赤蜻蛉
★赤き日の大きな撹乱秋あかね

 本日は京田辺市で39.9℃の記録。日の射す日中は結局家の中で昼寝を貪った。暑いのは度を越しているが、日が沈むのはやはり早くなった。
 夕刻近く、近くのスーパーへ買い物に付き合ったが、団地の蝉の鳴く木に赤い夕日が当たり、多少の風がうれしかった。
 蝉の他に存在を主張する動物は赤蜻蛉。道行きに2匹ほど見かけた。私の地域からは丹沢ないし富士に夕日が沈む。赤い夕日に向かって飛ぶ赤蜻蛉は印象的である。羽と鬼に夕日がかく乱されるのに目が向いた。


俳句の批評精神

2010年09月04日 17時54分24秒 | 読書
 「みすず9月号」(みすず書房)をパラパラと。巻頭の小沢信男のコラム「賛々語々6負けるまじき」は、俳句の批評精神を生かして相変わらず面白い。
 相撲界の野球賭博についてだが、さてさて、相撲賭博も昔何かの折に聞いたことはあるようだが‥。その胴元は、野球賭博問題にもかかわらず(マスコミは当然相撲賭博があるのは知っているだろうが) どのように身を処しているかのだろうか。隠しているのか、堂々と名古屋場所でも活躍して稼いでいたか。

「 負けるまじき角力を寝ものがたり哉 蕪村

 (前略)
 一番の悪党は胴元ではないですか。‥胴元はさておいて、天下の大関をクビに追い込んだとは、なんという仕打ちだろう。
 (中略)
 新聞やテレビが、よくもあんなに叩きまくれたものだ。‥賭け麻雀のひとつも知らぬげな石部金吉面を、ぬけぬけならべてまぁ。
 ‥天皇杯はともあれ、総理大臣杯のたぐいは向後いっさい無しに賛成です。たとえ白鳳でもそんなに余分は要らないでしょう。

 脱ぎ捨てて角力になりぬ草の上 太祇」

 そう、相撲が好きな人も、天皇「賜杯」や総理大臣杯が見たくて相撲ファンになっている人はいないだろう。この際、「伝統」にすがるでも神事にたよるでもなく、カンムリを捨ててみたらどうだろう。太祇の句のように何もかも「脱ぎ捨てて」相撲協会杯だけで再生したほうがよいのではないだろうか。相撲好きはそんなことには動じない根っからの相撲好きのはずだ。

 暑さひとしおの今日この頃、私の批判精神も怠け癖がついてしまった。 

俳句誌掲載句

2010年09月03日 21時35分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連
掲載句
★縄跳びの縄の緊張夏来る
★梅の実の落ちたる音のその青さ
★雨あがる紫陽花のひかり強き朝
★月光に紫陽花ざくと切取りぬ

 新たに加入した俳句誌の最初の掲載句。「最初」というものは緊張する。この俳句誌が私の句を受け入れてくれるのか、という不安とともに、将来的にも私がこの座に長続きするのかという心配がある。二句一章の句が多い俳句誌、主宰の句もそんな感じなので多少の心配・不安あり。
 現代表記であることはうれしい。私にとっては当たり前だが、全国の俳句誌を年鑑でみるとそれはごく少数派であるようだ。

本日の俳句(100902)

2010年09月02日 22時36分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★吊革に黒い手並ぶ朝九月
★有明月雲浮く空を透明に

 9月の新学期、日焼けした中高生の喧騒と混雑が通勤時間に戻ってきた。吊革につかまって整然としてくれていればいいのだが‥そうはいかないのが自然とはいいつつ、苛立ちと憂鬱な朝のひと時が帰ってきた。
 高島野十郎の月の絵のように透明な空に有明月がかかっている。透明さだけは秋だが、暑さは別だ。