Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ワクチン第1回目終了

2021年06月20日 16時35分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 COVID-19のファイザー社製のワクチンの1回目の接種が終了。接種後は運動は控えたほうがよいので、午前中に8千歩あまりのウォーキング。
 午後からまずは、私の親を接種会場に送ったのち、その足で自分の接種会場までは歩いて10分の距離。
 受付、予診票の確認、問診、接種、待機とスムーズに進行。体育館なので、親の接種会場(公会堂)よりは広く感じた。親の付き添いは妻にお願いした。

 15分の待機が終わって会場からバス停までの10分ほどの歩行は少しフワフワして、足が値につかないような感じがしたが、バスを待っている間にそのフワフワ感は消えた。
 バスを降りてからも、ゆっくりと歩いて自宅までの坂道を登った。

 明日は朝9時前に家を出て16時過ぎまでは組合の会館内で会議の連続。体もかなり動かさなくてはいけないので、本日はこれから休養。
 妻の経験でも、私の親の経験でも二日目はそれなりにだるさや痛み、腕の上げ下ろしの違和感があったようだ。親は若干の発熱もあった。三日目には二人とも回復していた。
 今回、私の親が二回目なので、明日は少々心配である。

 私の次回の接種は三週間後の7月11日。本日と接種会場が変わる。少し近くなり、バスの便も少しだけ良くなる。

 


集団スポーツ嫌悪症

2021年06月19日 21時55分41秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 弱い雨が終日降り続いている。午後になって夕食のおかずを買いに私だけ買い物に出かけた。途中でコーヒータイムという贅沢、といっても一杯200円余のチェーン店。小雨の中を傘もささずに歩いた。帰りも行きと同じくらい歩こうと思ったが、少しばかり雨が強まったのでバスを利用。それでも1万歩あまりは歩いた。二日間汗だくの2万歩のウォーキングを行ったので、本日はひとやすみである。

 ワクチンを接種した妻の具合は悪くはならなかった。雨の日なので、ちょうどいい休養日になったようだ。
 明日は私の親の2回目と私の1回目。この分では私の親の付き添いは妻に頼めるようだ。娘も集団接種会場をのぞいてみたい、という希望があるようで、電車で駆けつけて来るという。親の付き添いは二人になるかもしれない。別の集団接種会場の私には、当然のように付き添いはない。途中で合流してから帰宅するつもりではいる。

 夜になるに従い、気温が下がっており、半ズボンとTシャツでは肌寒く感じる。明日は晴れてほしい。せめて雨は降らないで欲しいものである。

 オリンピック・パラリンピックのゴタゴタは見るにつけ、聞くにつけ、あまりの無残さに開いた口がふさがらない。
 日本のスポーツ界を牛耳っている人間の思考と、保守派の政治思想の近似は、明治以降何にも変わっていない。科学的思考と客観的な判断がまともにできない。近代日本150年余、何事も進歩しないガラパゴスの動植物に失礼かもしれないが、ガラパゴス国家なのであろう。

 私は、小学生の高学年以来高校まで、体育教師というものはすべて根性論と軍隊式命令口調と集団主義の暴力教師しか知らない。体育教師とは満足に会話をしなかった。真剣に会話することを私から拒否してきた。だから私は個人でするスポーツ以外はすべて嫌悪の対象である。スポーツ番組を見るたびに、気分が悪くなる。
 髪の毛が耳にかかっているので長すぎると50mも体育教師に引きずり回されたり、炎天下整列させられふらついたといっては罵声とともに膝を蹴とばされたり、無駄口が煩いといっては連帯責任と称してクラス全員体育館のなかを50分走らされたり、手本通りにできないと侮蔑の目で蔑まれ、ということを幾度も経験してきた。今でもそんなことが学校でまかり通っていると聞くたびに背筋が寒くなる。
 すべての体育教師が私の体験したような教師とはいわないが、少なくとも今オリンピック・パラリンピックで組織の「責任者」でそのような傾向を醸し出していない人を見つけるほうが私には難しい。

 スポーツに邁進する人の、あの「人に感動を与える」という傲慢・思い上がりはいったい誰が、どこで植え付けているのだろうか。理論的、科学的、分析的な解説をするスポーツ選手は実に少ないと感じる。友人に言わせると野球などでは最近そのような人が増えている、ということである。少しは救いがあるのだろうか。
 スポーツと政治を安易に乗り換える人もまた依然として多い。これもまた困ったものである。


「近代絵画史(上)」(高階秀爾)から その2

2021年06月19日 20時34分53秒 | 読書

   

 本日は「近代絵画史(上)」の第6章まで読了。前回第2章のターナーについて言及してある個所の引用を忘れていた。
「(ターナーは)自然の中に、人間の存在をはるかに超えた強大な力――それも悪意に満ちた力――のみを見ていた。自然とは決してコンスタブルのように平和な静けさに満ちたものではなく、、またウィルソンのように静かに観照するものでもない。‥自然と人間との激しい闘争がテーマとして取り上げられるが、それはつねに自然の圧倒的な優位に終わる‥。ターナーの風景画の持つ荒々しさは、彼自身の心のなかの荒涼とした世界の反映である。‥ルネサンス時代や17世紀オランダの作品にみられたような自然と人間との調和のとれた関係は、もはや存在しない。‥自然と人間とのバランスのとれた友好関係が失われて、人間の理解を超えた不気味な自然が登場してきた時から「近代」が始まったのだとすれば、ターナーは紛れもなく、「近代」の先駆者のひとりであった‥。」
 


雨に似合う花

2021年06月19日 10時23分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日ワクチンを接種した妻は、接種したほうの上腕部の筋肉痛はあるとのこと。しかし発熱も無く、注射痕は赤味もなくどこの個所だったかわからない。立ち居振る舞いには支障は内容である。ただし力仕事はしんどいようだ。
 本日は朝から雨模様でもあり、外出はせずのんびり過ごしてもらうしかない。

 ベランダでは白いアジサイが少しだけ緑色を帯びてきた。また商品名「ペンタス」が美しく咲いている。
 いづれも雨によく似合う。

      


上弦の月

2021年06月18日 22時30分00秒 | 天気と自然災害

 本日は上弦の月。半分の月が西の空にかかっていた。厚い雲が少しだけ薄くなっているところで一瞬顔を出した。半月だと認識できたのはさらに短い一瞬、あとはぼやけて月だという認識すら難しい。そして1分もしないうちに、その痕跡すら分からなくなった。

 月が隠れてしまうと同時に、いったん止んだはずの雨がふたたびポツポツと降り始めた。傘をさすほどでもなく、そのままウォーキングを10分ほど続行して帰宅。ウィンドブレーカーは途中で脱いで手に持って続行。
 夜のウォーキングのためには仮の眼鏡を作っておいて、とても重宝した。


メンデルスゾーン「無言歌」

2021年06月18日 21時16分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 先ほど少しばかり雨がパラついたが、1時間もしないうちに止んだ。雨は1mm程度。天気予報によると、明日は1日中雨模様らしい。
 昨晩に引き続き、田部京子の演奏でメンデルスゾーンの「無言歌」を聴いている。昨日そのことを記事に記載したら、さっそくエッシェンバッハの「無言歌」を教えてもらった。「プライベートな空間で自分一人の内面に向かって弾いているような感じ」の演奏ということで紹介された。なんともそそられるような評である。さっそく購入してみたいが、今は年金生活の身。眼鏡を買い換えたばかりなので、秋口までにはなんとかしたいと思った。

 これより夜のウォーキングに出かけるつもりだが、少々気温が低くなった。Tシャツ一枚では肌寒い。ウィンドブレーカーを羽織って出かけることにした。

 


眼鏡が壊れて大慌て

2021年06月18日 19時32分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午後に妻はワクチンを接種したものの、今のところ気分が悪くなったり、痛みや熱が出たりはしていない。倦怠感もないとのこと。
 多くの人の体験では夜になって腕が上がらなくなったり、翌日微熱が出たりという報告を聞いているので、引き続き注視していく。

 本日眼鏡の枠が壊れてしまった。枠はもうすでに15年を超えて使っている。先日家の北側の雑草刈りの時にちょっとねじってしまった。汗を拭うために眼鏡を外そうとして帽子に引っ掛かってしまった。
 55歳ころに枠とレンズを更新した。その後レンズは二度ほど変えたけれども枠はそのまま。山にも掛けていき、酷使をしてきた。眼鏡店では「だいぶ金属が劣化しており、壊れる可能性が高い」といわれても無視していたが、寿命がきたのだろう。
  午前中に眼鏡店に駆け込み、新しい枠を購入し、今までのレンズを仮に入れてもらった。新しいレンズを入れてもらうための検眼を来週に予約した。
 仮の眼鏡であっても眼鏡なしで過ごすよりはずっとありがたい。夜のウォーキングも明日の団地内での作業も、日曜日のワクチン接種と月曜日の退職者会の作業と幹事会も何とかこなせることができる。読書もなんとかなりそうである。

 


メンデルスゾーン「無言歌集」

2021年06月17日 22時19分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 明日の午後の妻の第1回目の接種、並びに20日の私の親の第2回目の接種と私の第1回目の接種に向けて、提示書類と持参物の点検を実施。
 作業をしながら聴いた曲は、メンデルスゾーンの「無言歌集」から25曲を選んだ田部京子のCD。以前にもこのブログで取り上げたことがある。1993年の録音である。
 できればいつか、全曲を収録したCDを購入したいとは思っている。誰の演奏がいいのか、分からない。いつか友人に聞こうと思いながら、そのままになっている。

 クラシック音楽は一部の曲をのぞいて、私はひとり静かに聴くのが好きである。管弦楽曲も例外ではない。器楽曲は間違いなくひとり静かに聴きたい。特にこのメンデルスゾーンの「無言歌集」は秋の夜長に音量をできるだけ絞って、家の外に漏れないように聴きたい。人が寝静まった0時過ぎに聴きたい。近所迷惑にならないように用心して音量を絞り、虫の音をバックに聴くのがいい。今は梅雨時であるので虫の音が聞こえないのは残念。
 私は、ヘッドホンやイヤホンは煩わしくて、利用しないことにしている。


「近代絵画史(上)」(高階秀爾)から その1

2021年06月17日 21時11分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

      

 午後雨が上がると太陽が顔を出し、気温も上がり、気持ちの良い天気となった。遠まわりをして横浜駅の外周を回るように歩いた。さらに遠まわりをして自宅まで約1万5千歩ほど。
 途中の喫茶店で珈琲タイムと読書タイム。「近代絵画史(上)」(高階秀爾)を読む。

 こういう丁寧な入門書では、好きな画家に対する言及が気になるものである。好きな画家をどのように捉えているか、など興味がある。

 例えば本書では、近代絵画はゴヤから解説を始めている。そのゴヤについては、
「「規則」を重んじ、規制の形式の習得を金科玉条としたアカデミーに対し、制作における「自由」を徹底的に主張した点で、明白に「近代」を示していた。それはいわば、芸術における人権宣言であった。‥彼は、はっきりとロマン主義を予告している。‥世紀が変わり、ナポレオンの擡頭と失脚があり、ロマン派の「革命」が登場して、歴史は彼が横視した方向に静かに動いていった‥。」

 カスパール・ダヴィッド・フリードリッヒについては、
「ロマン派特有の「現実逃避」が、自然との神秘的な同化のなかで、ほとんど宗教的儀式に近い厳かな魂の高揚をもたらしてくれる‥。‥自然は時々刻々に変化するものではなく、永遠に変わらぬものであり、「観察」する対象ではなくて「帰依」する対象であった。‥(彼の描く人物が)後ろ姿だけを見せていて、決してわれわれの方を向こうとしないということは、はなはだ暗示的である。‥われわれを誘って自然の広大な世界に引き入れてしまう‥。‥彼の画面には‥永遠なるものへの思慕が満ち溢れている。ベートーヴェンやブラームスの音楽が表現しようとする世界と同質のものであり、‥世紀末の時代にまで受け継がれていく‥。」
 フリードリッヒの作品について「ベートーヴェンやブラームスの音楽の世界と同質」ということについては、さらに自分なりに考えてみたい。とても示唆的な表現だと思った。

 カミーユ・コローについては、
「すべてのものがまるで追憶のヴェールを通して見るように渋い銀灰色にふるえるイル・ド・フランスのしっとりした空気の感受性に捉えられて、その画面に生き生きとした表情を与えている。(晩年の人物像も)ほとんど動きのない静かなポーズを丹念にカンヴァスの上に映し出し、その姿を通して静謐な抒情の歌を響かせる‥。‥冨も名誉も求めず、ひたすら自然の歌を歌い続けたコローは、‥フランス絵画を新古典派から印象派の入口まで、いつの間にか持ってきてしまった‥。」
 私のおぼろげなコローに対する印象をきちんと表現してもらったようだ。私の印象が決して独りよがりではなかったと思う。過剰に表現するのではなく「静謐な抒情」とあっさりと言い切ってしまうことも必要であったのかもしれない。

 バルビゾン派について、
「ナポレオン帝政の末期か王政復古の初期に生まれ、革命やロマン主義の闘いに参加するためにはいささか遅く生まれすぎ、写実主義の代弁者となるにはいささか早く生まれすぎたいわば中途半端な世代であった。‥印象派のあの眩いほどの多彩な色彩世界を知るわれわれの眼には、彼らの作品はいささか暗すぎるようにも思われるが、そこに定着された情感の深さと表現の的確さは、歴史的なコンテキストを離れてもなお、彼らの作品を魅力的なものにしている。」

 ミレーについて、
「自然を眺めてもつねにそこに、大地の労働と結びついた人間の存在を忘れるわけにはいかなかった。‥農民の生活に向けられたその強い人間的関心とともに、彼をロマン派よりもいっそう写実主義の世界に近づけている。‥ある意味で農民たちを理想化してはいるが、‥単なる風俗の描写以上に、時代を超えてわれわれに訴えてくるものを持っているのは、「真実」の力ゆえなのである。」


短時間の豪雨と雷

2021年06月17日 12時10分02秒 | 天気と自然災害

 11時ごろから急に黒い雲が空を多い、あっという間に暗くなった。同時に横浜市の防災メールで「豪雨のお知らせ情報」を着信。大雨・雷注意報が出ていたが、楽観していた。
 降り始めると5分もしないうちに80mmほどの雨の区域に覆われた。狭く円形の雨の区域の移動は早い。強い雨がひと段落すると今度は鋭い雷鳴が連続。雷光は見えないが、近づいていることは確実。

 買い物に二人で出かけようとした矢先の雨と雷、昼食後は天気予報どおりに晴れるといいのだが‥。雨が上がっても雷がなっている間は出かけるのは控えたい。
 雨の区域は都内から南に北風に乗って流れてきている。気温はそれほど高くならないらしい。


雨は止んだ

2021年06月16日 22時25分39秒 | 天気と自然災害

 一時は大雨・洪水警報も出たが16時過ぎに解除になり、大雨・雷注意報になっている。
 午前中の雨が上がったのち、14時過ぎからの1時間半ほどの雨もひどかった。南側のベランダに降った雨は、屋上からの雨水排水菅に流れ込むようになっているが、逆流して吸い込まなくなり、ベランダに水が上がりそうになった。幸いベランダから庭に水はあふれることはなかったが、不安にはなった。
 現在は雨は止んでいる。しかし明日の午前中は雨の予報となっており、午後から曇の予報である。

 雨が降らなければ少しだけでも夜のウォーキングをしてみたい。レインアイよこはまを見るかぎり、大丈夫らしい。


「ハムレット」読了

2021年06月16日 21時11分18秒 | 読書

 「近代絵画史(上)」(高階秀爾)の序言にあった「雀一羽落ちるのも神の摂理」(「ハムレット」)という引用箇所を見つけようと、たまたまちくま文庫版の「シェークスピア全集」(松岡和子訳)のがハムレット」が本棚にあり、ページをめくった。しかしすぐに見つからなかった。昔読んだとき、どの場面だったか覚えておらず、初めから読み始めた。中学生と高校生の時に読んだときもこのセリフは頭に残らなかった。
 訳も進化しているということだが、やはりシェークスピアなのであろう、一気に引き込まれてしまった。本当なら二日もかからずに読み終えるのであろうが、退職者会の仕事やら、頭の疲労(?)もあり、どちらかというとのんびり読み進め、本日読み終えた。

 「雀一羽‥」は最後の第5幕第2場、ハムレットが王の前でのレアティーズとの試合に臨む直前の場面である。ホレイショ―と会話の場面である。ホレイショ―が「気が進まないならば‥」と試合に臨むのを止めるのを振り切る場面である。

「前兆なんか気にしてはいられない。雀一羽落ちるにも天の摂理が働いている。いま来るなら、あとには来ない。あとで来ないなら、いま来るだろう。いま来なくとも、いずれは来る。覚悟がすべてだ。生き残した人生のことなど誰に何が分かる。だったら、早めに死んでもおなしことだ。放っておけ。」
 このセリフの直後に王などが登場して、最後の場面になる。
 その他、心に残ったハムレットのセリフをいくつか。

「俺は胡桃の殻に閉じ込められても、無限の宇宙を支配する王者だと思っていられる。-悪い夢さえ見なければ。(ギルデスターンの「夢こそが大望です。野心の本質は夢の影に過ぎませんから」を受けて)‥夢のそのものが影にすぎない。」 (第二幕第二場)

「生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題だ。‥やみくもな運命の矢弾を心の内でひたすら耐え忍ぶか、艱難の海に刃を向け、それにとどめを刺すか。‥死ぬ、眠る。眠ればきっと夢を見る――そう、厄介なのはそこだ。人生のしがらみを降り捨てても死という眠りの中でどんな夢を見るか分からない。だから二の足を踏まずにいられない。――それを考えるから辛い人生を長引かせてしまう。」(第三幕第一場)
 これはあまりに有名な箇所。中学生のころには全体の意味がよくわからなかった

「動きを言葉に合わせ、言葉を動きに合わせる。‥自然の節度を超えないことだ。何であれやりすぎれば、芝居の目的からはずれるからな。芝居がめざすのは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡をかかげ、美徳にも不徳にもそれぞれのありのままの姿を示し、時代の実体をくっきりと映し出すことだ。」(第三幕第二場) 
 これは間違いなくシェークスピアの演劇論の一端である。

「持ち時間の主な使い道が食って寝るだけだとしたら人間とは一体なんだ?‥創り主は我々にこんなにも大きな思考力を授けられ、過去と未来に目を向けるようにされた。その能力と神のごとき理性を持ち腐れにしていいはずがない。‥思考というやつ、四分の一だけが知恵で、四分の三は臆病――どういうことだ。「これだけはきっとやる」などと言いながら、なぜおめおめと生きている。」(第四幕第四場)
 このセリフは強迫観念の様に20代前半の私をさいなんだセリフでもある。


小林亜星と天満敦子

2021年06月16日 13時02分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 小林亜星氏が亡くなったとのことである。テレビなどでは歌謡曲、俳優という枠組みでの紹介記事が出ているが、私はそちらはほぼ無知に等しい。

   

 私などには、ルーマニアの作曲家のポルムベスクが作った「哀歌」「ベルタのノクターン」の編曲者として記憶に残っている。この編曲は天満敦子のために書かれ、彼女にによって初演された。
 同じポルムベスクの「望郷のバラード」と、モンティの「チャルダーシュ」は天満敦子のコンサートで必ずプログラムに入る。
 久しぶりに天満敦子の「哀歌 ベルタのノクターン」の1995年の日本初演のCDを聞いている。なお、この両曲のYoutubeは見つからなかったが、「望郷のバラード」は以下のとおり。
                           【⇒望郷のバラード 天満敦子


雷と大雨注意報

2021年06月16日 10時33分00秒 | 天気と自然災害

  日付が代わったころから雷が盛んに鳴り始めた。横浜の青葉区、緑区、瀬谷区あたりに80mm以上の雨の区域がしばらく留まっていた。
 布団の中で、雷の音を聞いていると寝るのを忘れてしまう。恐怖ではなく、次にどの程度の雷鳴が聞こえるのか、探るように耳をそばだてていた。悪くいえば、雷の音を楽しんでいた。
 結局雷も近くにはならず、雨も強くならず、いつの間にか気持ちよく寝ていた。
 3時半ころにいったん目が覚めたときは、雨の音も雷も聞こえなかった。



 つい先ほどから突然のように強い雨が降り始めた。郵便局に出かける寸前に雨の音が始まり、傘も役に立たないほどの雨である。出かけなくて助かった。
 時間雨量で80mmの雨である。雷も遠くで鳴り始めた。昨晩はほとんど停滞しつつも北西から南東に流れていた雨の区域は現在もあまり動かずに南東から北東方向に移動している。ほぼ180度方向が変わった。
 1時間ほどで強い雨の区域は縮小したが、雨の区域自体は縮小せずにかえって広がっている。

 大雨・雷注意報は解除されていない。本日はこのような雨が繰り返されるようだ。

 雨が小降りになるとすぐさまカラスが人を威嚇するように鳴き始めた。かなり神経質になっている。


迫ってきた強い雨の区域

2021年06月15日 22時23分01秒 | 天気と自然災害

 本日も横浜は28.7℃と7月上旬の気温。積乱雲が東の空に見えた。夏の空と雲に見えた。昨日は体力的にもつらかったが、本日は体調そのものは割と快調、横浜駅近くの喫茶店まで往復歩いた。歩き慣れた道なので、それほど苦にはならなかった。

 しかし喫茶店では読書もせずにボーッと外を眺めていた。頭の中はなぜかお疲れ模様。自分でもどうしたらいいのか、見当がつかない。「近代絵画史(上)」をリュックから取り出してみたものの、本は開きもせず、アイスコーヒーを飲むのが精いっぱい。それも半分ほどは残した。珈琲よりもセルフサービスの水2杯がおいしかった。

 明日雨ならば、近くの郵便局の往復だけで、残りの時間は静かに家籠りとしたほうが良いかもしれない。

 強い雨の区域は狭くはなったが、相模原市にかかってきており、弱い雨の区域が横浜市北部まで南下してきた。もうすぐ私の家の周囲も降り始める可能性が出てきた。