「トウガラシの世界史 辛くて熱い「食卓革命」」(山本紀夫、中公新書)を読み終えた。本日読んだのは、第7章「トウガラシ革命 韓国」の後半と第8章「七味から激辛へ 日本」、ならびに終章「トウガラシの魅力 むすびにかえて」。
15世紀初冬に南アメリカから大西洋を渡ってヨーロッパへ、太平洋を渡って東南アジアへスペイン・ポルトガルによってもたらされたトウガラシが短期間で世界に広まった経過が分かりやすく叙述されていた。時には饒舌に、面白く書かれている。
お隣同士の韓国と日本の受容の仕方の違い、中国での受容はかなり遅いこと、なども興味深く読めた。
朝鮮半島では日本とは違い肉食の香辛料として高価なコショウ(日本からの輸入)にとってかわった。しかしこれだけではトウガラシの多用の理由として不十分であるとして、辟邪信仰説に一定の説得力があると記載している。
「(韓国の李盛雨氏は)半島では病の神が赤い色を忌み嫌うと言われています。・・病の神を追い払うと考えたのでしょう。また非情に辛いものですから、病の神が近寄れず、体の中に隠れていた病の神が逃げ出すと考えました。」
この指摘の当否はわからないが、民俗学的にあり得ることと理解しておこう。
そしてキムチにトウガラシを使用するようになるのは18世紀半ば以降という資料があるとの指摘である。
「日本では(食欲増進作用は分かっていたが)トウガラシの強烈な辛みをあまり好まず、七味唐辛子のなかの一味程度で充分に満足したのである。・・・トウガラシが園芸植物としての価値が認められていたことを物語る。」
「日本での食用の歴史(七味唐辛子を除いて)は浅く明治・大正と食生活が洋風化してくるにつれてカレー粉にソースにと用途が広がった。主要生産地である栃木、茨木でその生産が始まったのは1932年(S六)であったとされる。」
朝鮮半島にしろ、日本にしろ、トウガラシの利用の歴史はきわめて浅いことが分かる。
終章ではトウガラシの辛みの成分であるカプサイシンの生理学的な効能が述べられている。概略を記してみる。
カプサイシン①→舌の痛覚刺激→身体の消化促進・無毒化反応→胃腸の活性化→食欲増進。
②→エンドルフィン(鎮痛作用)分泌→疲労・痛みの緩和→快感
③→ストレス解消・体内の脂肪分解促進
④→副腎よりアドレナリン分泌→興奮作用
⑤→カビや一部細菌に抗菌作用→品質変化抑制・腐敗防止
⑥→抗酸化作用
トウガラシ ⑦→ビタミンA・C・Eの大量含有
18日の一晩の北風でケヤキの枯葉がほとんど散ってしまった。例年ならばもう少し時間をかけて散るはずである。昨晩も強めの風であったが、今朝になって路上に落ちた枯葉はとても少なかった。
ケヤキの葉は小さいので、落葉かきは面倒である。一晩で一挙に落ちたので、その面倒が多少は軽減されたと思うことにした。
本日は昨日よりもさらに気温が低く横浜でも9℃の予報である。そして雨模様でもある。朝のうちは霧雨程度の雨がごく短時間降ったが、すぐにやんだ。傘も雨用のコートも必要はなかったが、昼前から予報通りに本降りに変わった。
妻に続いて私も外出。特に予定はないが、いつものとおり家電量販店・書店・百円ショップを回って喫茶店で読書タイムの予定。
昨日は朝の9時前には家を出た。組合の会館の手前でポツリと雨が落ちてきたが、すぐに止んでくれた。
いつものとおり、9時半過ぎから本日の作業の準備(ニュース・チラシ類・イベント案内チラシの印刷・斡旋商品の広告チラシ等々、封筒・あて名シール・セロテープ等の事務用品その他)、役員会、資料の印刷、発送作業の後片付け、14時からの幹事会、幹事会終了後の会場後片付けと、終了したときは疲労困憊。月一回のこととはいえ、慣れるものではない。
16時ころからいつものとおり、慰労会というか飲み会。差し入れの手料理とお酒を堪能。17時半には二次会で居酒屋へ。私はそこで退散。数人は三次会へ。その元気がうらやましい。
横浜駅から歩いて帰宅。北風が冷たかった。そのままベッドへ直行。日付が変わる直前に軽く洗身と入浴。
昨日の日中はまだ温かかったが、本日は朝からとても寒い。気温の上下が激しい。
昨晩の夜から北風が強くなり、日付が回ったころには最大瞬間風速が18m、風の音が激しかった。
ケヤキの枯葉が一挙に散り、風で道路の端に吹きよせられている。
14日に見たみなとみらい地区の楓はこの風でどうなっているか、気になるところである。
今朝は北風の強い中、親の通院の付き添い。ごく近い病院であるが、ゆっくりと歩いて往復。この外の予定はないので、本日は休養日。昨日の会議でくまった日程をスケジュール帳に書き加えた上で、昼食後にシャワーを浴びてから喫茶店でのんびり過ごしたい。
予定通りに資料作成の作業が終了。現在退職者会のブロックのニュース100部の印刷中。
朝からの作業に疲れたので、午後のひとときは近くの喫茶店で一服。読書タイムは確保できず。
親と相談し、月末に新型コロナの8回目の予防接種を受けることにした。親のかかりつけ医は予約なしで受けることができるので、私と妻も同時に接種をお願いすることにした。3人ともこれまで特に重い症状が出たことはない。
明日は朝から退職者会の役員会と幹事会。退職者会ニュースと、ブロックのニュースを共に封入作業。他にもいくつかのチラシを入れることになっている。いつもよりは時間がかかる作業になる見込み。
ニュース以外で作成した資料やチラシの修正を役員会で指摘されるかもしれないので、新しく購入したノートパソコンを持参。リュックがそれなりに重くなる。印刷している100部のニュースの重さも加わる。
作業が想定よりも早く終わったので、本日は早めに就寝予定。昨晩それなりの睡眠時間だったが、やはり深酒の影響であろうか。眠い。
そろそろツワブキの季節になった。
連続更新を目的としてはいなかったが、昨日はブログの更新を忘れて、寝てしまった。もっとも覚えていてもかなり酔っていたので、文章は書けなかった。
午前中は、退職者会のイベントのひとつのミカン狩りに家族とともに集合場所へ。家族はミカン狩りに参加し、私は残念ながら午後から始まるカラオケのイベントの会場設営のお手伝いのために、組合の会館へ。
ミカン狩りには会員と家族を合わせて30余名、カラオケにも会員が30名。予定が重なってしまった。両方のイベントに参加した会員はミカン狩りのあとのバーベキューの昼食会には参加できず。
カラオケの機器の設置は毎回業者にお願いするものの、机の配置などはみんなで分担。手作りの美味しい料理や、高価で珍しいお酒は会員の持込み。料理好きの会員の料理はきわめて好評。お酒も多めだったがきれいに飲み干した。曲の入力や曲目・歌い手紹介などは実行委員が活躍する。
ただし、私が歌うことは絶対あり得ない。あくまでもお手伝い要員である。
2時間以上たっぷり楽しんで、終了。後片付けも手慣れた会員の協力であっという間に終り、16時過ぎに会場をあとにした。二次会で実行委員の慰労会を兼ねて19時まで。
酔い覚ましを兼ねて、最寄り駅からかなり遠回りで歩いたが、帰宅してすぐに寝てしまった。日付の変わる直前に音を経てずに入浴。お湯がだいぶ温くなってしまっていたが我慢。
本日は朝から退職者会の私の属するブロックニュースの仕上げ。昨日の二つイベントの記事・写真も掲載。
夜までに他の資料作成をして、ニュースを100部ほど印刷して本日の作業は終了予定。順調に機械が動いてもらいたいものである。今のところ試刷りは順調。
「古墳と埴輪」(和田晴吾、岩波新書)を読み終えた。本日読んだのは第7章「日中葬制の比較と伝播経路」と「おわりに」。
長くなってしまうので、結論部分についてだけ覚書として引用してみる。
「(六世紀後葉に)王権全域では群衆墳とよばせる円墳や横穴群がつくられていたが、前方後円墳は王権下全域でほぼ同時期に消滅する。それとともに「天鳥船信仰」も衰退し、埴輪も見られなくなる。古墳から他界表現が無くなったことで墓は単なる遺体や遺骨を葬った墓標のある場所に近づいた。代わって仏教文化をはじめとする新しい文化や社会制度が積極的に取り入れられ、国が定めた法制的原理が集団関係を律する社会が動き出した。・・・・「古墳から寺院へ」時代を反映した巨大な構造物が古墳から寺院へと変わっただけでなく、人びとの他界観も仏教的他界観へと変わった。」(第7章)
「「古墳の儀礼」は弥生時代に水稲農耕文化の源流である中国江南の新石器時代の船棺葬をはじめ、経由地の朝鮮半島南部で加わった要素からなる基層の上に、黄河や長江の中流域の春秋末・戦国初期~秦・前漢にかけてての要素、および東晋・南北朝期の要素、さらに朝鮮半島諸国で変容した要素などが絡み合いながら列島に伝わり、列島内でも九州・機内など地域差をもちながら独自に発展した。古墳の儀礼は基本的に文字を持たない古墳時代社会でもそれなりの死生観・他界観のもとで独自の祖先崇拝が育まれた。古墳の儀礼はヤマト王権全域において、長期にわたり繰りかえし行われ、当時の社会の人・もの・情報の流通を促す最大の原動力となったのであり、古墳づくりは国づくりそのものでもあった。」(おわりに)
昨日は二週間ぶりに神奈川大学の美術鑑賞の対面講座。「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の3回目「ローマ」を受講。絵画作品よりも建築物について興味ある話を効けた。絵画作品では最後にカラヴァッジョが取り上げられた。ローマは遺跡も多く、取捨選択は難しい。講師のこだわりが伝わった。
次回は二週間後、マドリードを取り上げることになっている。これも楽しみなのだが、残念ながら退職者会のイベントと重なり、受講できない。最終回に資料をもらってこれで楽しむことで満足するしかない。
講座は正午を少し回って終了。みなとみらいから桜木町・野毛界隈をぐるっと回って地下鉄で横浜駅に戻り、コーヒータイム。
天気予報では太陽も顔を出すはずであったが、終日厚い雲が空を覆い、気温の割には寒々しく感じた。
本日は予定が取り消しになり、午前中は退職者会のブロックのニュースの作成やら資料づくりを少々。ニュースは日曜日までに仕上げて、100部近く印刷しないといけない。つくり始めるのが少し遅くなってしまった。
午後は所用があり、これより出かける。
田中一村は40歳代の1950年代は日展や院展に出品するも落選を繰り返す。その間に軍鶏の写生にのめり込んだり、カメラを始める一方、1955年に聖徳太子殿の天井画などに一定の成果を出す。
天井画や襖絵などの植物画、そして障壁画の墨絵などにも迫力があり、惹かれるものがあった。
その間に千葉を出て、九州・四国などの旅を経て、奄美に定住する。この1955年は画業の画期と思われる。
画期と私が思うのは、写真から近景と遠景のひとつの処理の方法を得たと思われる。普通はボケ味で近景と遠景の差を出すのだが、ピントには頼らず、近景を大きく、遠景を覗くように近景から広がるように描いている。
さらに私がこだわっていた「白」の処理が大きく変わった。前回「白い花」の改作で、白が際立つように描かれるようになったが、「ずしの花」でも「山村六月」「由布嶽朝靄」(1955年)でも花弁、雲、水田の「白」、葉の「緑」のグラデーションが際立っている。雲の白に埋没しない花の白が美しい。
写真から学んだと思われるが、奄美での写真と比較するとよくわかる。
1958年以降、奄美に移り住むが、ここでさまざまな工夫が一気に開花したように思える。
まずかなり縦長の構図にこだわり、近景を思い切り大きく描き、遠景の広がりを強調するようになる。覗き見るような遠景はかえって広々と開放的な印象を与え、鑑賞者の意識をホッとさせる効果がある。これもまた人気のひとつではないだろうか。
さらに「白」が近景に際立つように配置され、花弁の色とともに「光」を兼ねるようになる。花弁や蝶にスポットライトがあたっているような「白」はきわめて印象深く、人を惹きつける。
また鳥に少し動きが出てくる。動かない剥製のような軍鶏の作品から脱却し、鋭く鳴く鳥、飛び立とうとして力を溜めているようなアカショウビンなど、動きを切り取っている。この鳥の動きが鑑賞者の目を画面に引き寄せる効果があるのではないか。
異時同図のように花々の蕾から萎れるまでの姿を同じ画面に表現するなどの工夫も見られる。
ここに掲げたのは私の印象に特に残った6点。
《パパイヤとゴムの木》(1960)、《奄美の郷に褄紅蝶 》(1968)、《アダンの海辺》(1969)、《不喰芋と蘇鐵》(1973以前)。《榕樹に虎みみづく》(1973以前)、《檳榔樹の森》(1973以前)。
4点目は遠景がないものの背景の灰色が遠景の代用かもしれない。花の様子から花が咲く直前から実をつけて項垂れるもでの異時同図と思われる。
5点目は、頂点のみみづくには動きはないが、左下の鳥の鋭い眼と鋭い鳴き声が聞こえそうな動き、右下のスポットライトの当たったような白い花が印象的。遠景が小さいものの海の広さが充分に感じられる。
6点目には遠景がないものの、下と左上の白い花で、森の奥深さを感じさる。
奄美では若い頃のように魚やエビをクローズアップして画面いっぱいに詰め込んだ作品もあるようだが、これは作品としては成功していないように感じた。
田中一村という画家、川端龍子のもとを去ったときはなかなか頑固で不遜であったかもしれないが、自己の克服すべき課題について客観的に自覚をしていたのではないだろうか。その克服に長い年月と、美術界からの遠い「距離」が必要だったと思える。その自分なりの回答が奄美移住とその直前でもたらされたと思えた。
明日は10時から神奈川大学のみなとみらいキャンパスで対面講座。「欧州美術紀行」(講師:中村宏美)の3回目「ローマ」。作品は盛りだくさんと思われるが、どのような取捨選択があるか、それが見ものである。
金・土とも一日中予定があるが、明日の午後・夜は予定がない。明日には「田中一村展」の感想は3回目の記事をアップしたい。最終回のつもり。今晩中にアップしたい画像を作成しておきたい。明日もウォーキング日和らしいが、早めに帰宅してパソコンと睨めっこすることになりそう。
午後は2か月ぶりにいつものかかりつけ医の診察。先週の採血・採尿等の診断結果を踏まえての診察である。さまざまな数値はさらに改善していた。
このままの状態を続けることで診察終了。降圧剤等の処方はそのまま。前回減薬した降圧剤はそのまま現状維持。
本日は病院は時間がかかり、診察が終わったのは1時間後。薬局も混雑していたので、薬が処方されるまでの50分ほどをウォーキングで過ごした。危うく薬局に寄らずに帰宅しそうになり慌てた。
近くのフラワー緑道を歩いた。書き忘れているが、いつも気がつくことがある。カワヅザクラの葉よりもヨコハマヒザクラのほうが一回り以上大きい。大きいのでカワヅザクラよりも落葉しても目立つ。まずはヨコハマヒザクラの葉から。
本日の午前中はパソコンルームに設置する小型のガスファンヒーターを業者が搬入してくれた。これまでよりも少しだけ大きかったのは予想外。すぐに部屋は温かくなった。運転の目安は室内温度が20℃未満となった時。
午後は、親と妻とともにインフルエンザの予防接種。昨日からの雨も上がり、太陽が顔を出し始めてからワクチン接種の病院に出向いた。行きはタクシーを利用したが、帰りは親の調子も天気もともに上々ということで、ゆっくりは歩いた帰宅。少し歩く自信が着いたようだった。妻と私はそれぞれ2300円、私の親は無料。3人合わせて4600円。
8回目の新型コロナのワクチンの同時接種も可能と言われたが、親の年齢を考え、それは来週以降に受けることにした。新型コロナワクチンは一人3000円と言われている。
1947年、田中一村は川端龍子主催の青龍社展で《白い花》が入選する。このとき小下図の段階で、同社の時田直善氏が指導し、「細かく描き込まれた画面を整理」したとの指摘があったとのことが「もっと知りたい田中一村」(東京美術)に記されている。ここでも仮面にびっしり描き、空間の処理に戸惑っている田中一村の画風が短所として指摘されたようだ。
展覧会場でもこの作品の前には人だかりがしていた。しかし私はどうしてもなじめなかった。原因は二つある。一つ目は白色の処理。二つ目は鳥の位置の問題。
白が浮き上がってこない。葉の緑のほうが勝っており一見「白い花」は背景の空間かとすら思える。白の顔料の問題なのだろうか。
また鳥も緑の葉に隠れており、位置も下側にあり、そのまわりの空間まで緑で埋まり、存在感が薄い。むろん実際の鳥はそうたやすく広い空間に身を曝すことは少ないかもしれないが、構図上のバランスはあまりに悪い。
しかし、田中一村はこの入選は自身も記念碑的な作品と捉え、同じような作品をいくつか描いている。取り上げたのは8年後の1955年の作品であ。
こちらのほうが一般的には「洗練された」ということなのであろうが、確かに白が浮き出て見える。花の緑は前作に比べ少しくすんでおり、白を際立たせている。白い花はヤマボウシ一種だったものが3種の白花になっている。
また鳥が大きくなり、中央の上に移り、その周囲の空間が確保され、存在感が大きく増している。左半分の空間が空いて、左上から右下への対角線の流れが自然である。
終戦直後からこの時期まで、30歳代末から40歳代後半のこの頃は、構図、彩色の点で大きな飛躍があったと感じた。一方で違和感もある。鳥の姿は動きを想像させない。残念ながら剥製の鳥のようである。
翌年、一村は再び青龍社展に《波》(所在不明)、《秋晴》出品し、《波》が入選するも、自信のあった《秋晴》が落選。これに抗議し、入選を辞退し、川端龍子のもとを去る。
図録では「川端龍子は日本画を床の間から展覧会場へと解放し、繊細巧緻な表現よりも「健剛の芸術」を目指し・・大画面に合法な筆致で、クローズアップの構図とする傾向が強くあった。《秋晴》では金屏風にシルエットで樹々が大胆に表現されたものの、枝葉の表現や軍鶏の姿などは緻密で、情景はもの悲しく、龍子の「健剛」とは相容れないものだった」と記している。
また「もっと知りたい田中一村」の解説には「速水御舟の描く構成されたケヤキの細い線、龍子はそれを受け入れなかった」という指摘があった。御舟と龍子の間の確執や作風の違いに翻弄されたというのは、穿ち過ぎの見方であるように感じる。私はもっと別な違和感をこの作品に感じた。
それはやはり「白」の処理であり、軍鶏の動きの無さであり、無理な大根の配置であり、遠近感を無視したような建物の配置である。。
まず《白い花》での「白」の扱いは田中一村も不満足ではなかったのではないか。画面でとりわけ目立つ「白」の描き方に画家なりに自負があったのかもしれない。しかし私にはあまりに唐突で無理な白の強調に思えた。干している大根はこんなには白くはない。もっとくすんだ白である。
しかもケヤキの細枝は折れやすい。こんな細い枝に大根を干すであろうか。しかも高さが高すぎる。人間の手では届かない位置に干している。現実感が喪失している。ケヤキはこんな下にこんな枝を伸ばすことは無い。そして軍鶏には動きがない。
ケヤキの幹などは厚く顔料が重なり、質感に苦労している。樹木以外にはその質感へのこだわりが感じられなかった。
総じて現実感を「喪失した」というよりも「喪失させた」画面構成に、仏画の流れからの一村の「浄土」のイメージを想定するのは飛躍であろうか。
もう一つの所在不明の《波》がどのような作品なのか、わからないが、《秋晴》のような方向以外の方向を模索を始めたのだと理解したい。
1953年の《花と軍鶏》の襖絵までに田中一村は軍鶏の写生を執拗に繰り返した。伊藤若冲のように写生に明け暮れたらしい。精緻な軍鶏である。しかし私の視点では、動きが感じられない。一村のように細密画のような描き方で動きを感じさせるというのは至難の業であるらしい。
この時期には、空間を埋め尽くしてしまう、という点では余白を十分意識する描き方になって克服したように思われる。しかし引き続き一村は「対象物の動き」「色彩のバランス」「遠近」「余白などの空間処理」等々の課題に直面し、克服しようということにはかなり自覚的であったのではないか。この解決に向けて努力と模索が続けられたのではないか。
50歳を過ぎて、一般的には完成の域に達するといわれた年齢を過ぎても、奄美に移り住み、一気に花開く直前まで努力が続いたと感じている。
私はこの執拗ともいえる模索と持続におおいに惹かれる。