■『子どものこころが傷つくとき 心理療法の現場から』(第三文明社)
網谷由香利/著
サイコセラピストである著者のプロフ写真を見ると、まだ若くて美人さんなのに驚いた。
でも、かなり心理を勉強された上、現場でのキャリアも長いようで、
実際セラピーを受けたクライアント(相談者)の実例(仮名による)をあげて説明しているので
とても具体的で分かりやすく、「心理学なんて難しい」と思っている人でも読みやすい文章や構成の工夫がなされている。
「子どものこころがわからなくなったらこの本をお読みください」と裏表紙にコピーが書かれていて、
まえがきで著者が訴えているように、問題のある子どもを抱えていても、今問題がなくても、
まだ出産・結婚していなくても、とにかく大人に積極的に読んで欲しい1冊だと思う。
「今の子どもはまったく・・・」「親殺しなんて、キレる子どもは怖い」などと表面的な善悪で単純に判断せず、
その背景にある家庭環境、誰にとっても身近な親子関係について、
世の中のみんなで考えていきたい、いかなきゃならない切羽詰った状況にあるんだと思う。
【内容抜粋メモ】
またまた長くなってしまったことをお詫び申し上げます(なにせ自分とのリンクが山ほどあったので
子どもの不登校や引きこもりは、こころ(無意識)からの警告であり、
無意識が意識に対して働きかけ、動くことにストップをかけていると捉えることができる。
それに逆らって無理に動かそうとすると、せっかくの回復のチャンスを逃してしまう。
子どものこころはどんな時に傷つくか
守りのないとき、誰も守ってくれる人がいないとき。
事例1:
離婚家庭で不登校になった幹夫。父は死んだと聞かされていたが、生きていて、写真の頭部だけが切り取られていた。
妻が夫を憎むことは自由だが、その憎しみの気持ちと向き合わなかったことが根底にある。
学校でささいな事件があってキレた幹夫。
少年のこころにもう少しゆとりがあれば、学校での対人関係も乗り越えることができ、居場所を失うような事態にはならなかった。
大人はしばしば、自分が解決できない問題を、気づかずに子どもに背負わせ、押し付けてしまう。
家族による支えと守りがあれば、子どもは自分でこころの傷を修繕することができる。
布置
家族は人間関係の原点。私たちは、それぞれが課題を背負って生きている。
家族もまた一つの人格を持ち、その家族特有の課題を担っていることをユングは「布置」といった。
布置はこころが意識しないところで生じる。
事例1の場合、母の「憎しみ」「怒り」を、家族のほかのメンバーが身代わりになって背負わされている。
親に話せるかどうか
とくに傷つきの出来事について親に話せるかは、とても大切な問題。
語ることは癒す反面、「新たに傷つき直す」という面もある。傷が大きいほど打ち明けるのは難しい。
無理に語らせようとするのは、支えや守りにならない。
語ることで改めて傷を再体験するという辛さを乗り越えるには、対人関係による守りをもってする以外にない。
成長モデルとしての親
子どもはたいてい同性の親をモデルとして大人になる。父母は一番身近にいる大人で、子どもの将来の目標にもなる。
親子関係で傷ついているほど「あんな大人になりたいくない」と思い、
子どもを持つことや結婚することさえ受け入れないこともある
比較的傷つきの浅い子どもの場合は、親を反面教師として自立する例も多い。
「内なる父親」の傷つき
人の中の父親のイメージ。実際の父親そのものではなく、異なる特徴を持っている。
私たちのこころの世界を特徴づけたり、支配するのは、現実の父より、むしろ「内なる父親」の影響力。
「良い子」の傷つき
「良い子」と言われる子どもほど傷つきやすい。
良い子とは「大人にとって都合のいい子」、つまり攻撃性を発揮できず、
自分より強いと思われるものに立ち向かう勇気を持たない、自分を守れない子ども。
常に親や教師の期待に応えようと無理して頑張り、自分を傷つけてしまう。人からも容易に傷つけられてしまう。
子どもの世界も決して美しいだけではない。
人のこころの中にある「怒り」や「憎しみ」を忘れてしまえば、人権や平和の理想からはかえって遠くなるだろう。
事例2:
正義感が強く、汚いものを毛嫌いする母のもとで育った順子は、学校でのいじめを止めさせ、自分がいじめられて不登校になった。
母が代わりに心理療法を受けることによって、順子の摂食障害を伴う不登校は克服された。
母の偏った価値観を娘に押しつけることの誤りに気づいたことが、娘のこころの回復になった。
こころの全体性
「悪」もまた存在するという現実を知り、その現実に正面から向き合うことで傷つきから回復するのが本来の癒しである。
このような癒しを、クライエントとの人間関係を通して援助するのが心理療法。
明るい家族は健康か?
メディアの価値観に支配され、それが「絶対的である」ようになってしまう。
「明るい子どもはすばらしい」→「明るくなければならない」という一面的な考えに苦しむ子どもはたくさんいる。
「暗さ」も含む自然な自分から切り離され、こころがバラバラになる。
事例3:
理想的な中学生だった健太が「自律神経失調症」と診断され2年近く引きこもる。
小さい頃から喘息を抱えていたことが家族だけの秘密で、手術を繰り返して回復した途端になぜか体調不良、引きこもり、不登校となった。
彼に「明るさ」のみを求める家族。
「弱さ」「暗さ」など一般的にマイナスの評価しか受けない特性をどれだけ大切にできるかが問われている。
マイナスの側面も、子どもの一部として尊重する必要がある。
子どもとのコミュニケーションにマニュアルはない
人にこころを開くのは、相手が自分を分かってくれていると感じる時。
子どもに対して言葉をかけるよりも、子どもの話を聴くことが何よりも重要。
言葉は目的ではなく、こころを運ぶ手段だということを忘れてはならない。
子どもの頃の自分を思い出す
親子関係の問題は、親が自分を振り返ること抜きには解決しない。
セラピストは心理療法の中で、父母の「思い出し作業」の手伝いをする。
子どもは親に「大切なもの」と思われることで初めて、自身を大切にできる。
現代ほど親が子どもを「守る」力が弱くなった時代はいまだかつてない。
事例4:
小学1年生の真吾は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)で、学校でも家庭でも困り果て心理療法を受けた。
親の離婚により、仲の良かった父との別離、継父の厳しいしつけがあった。
守られない子ども
どんな子どもも多動で衝動的な傾向はある。
彼は「大人の指示に従わなければならない時に、自分をコントロールできない」という特徴を拡大して見せてくれているだけ。
遊び治療(プレイセラピー・遊戯療法)例:「箱庭療法」など
子どもは遊びの世界の中で傷ついた自分のこころを表現する力を持っている。
大人も子ども、緊張、疲れ、傷つきから解放されるためには遊びが必要。
子どものこころは死の世界にとても近い。
理想化される父親
3歳~5歳頃の男の子にとって、お父さんは極端に理想化され「自分を守ってくれる強い男性」と思い込む。
家族を守るための父親の働きは大きい。
「新しい父は嫌いだが、それを言うとママが悲しむ」という真吾。
子どもはしばしば立場を逆転させて「親を守る役割」をとらされていることがある。
情動の中でも特に大切なのは「怒りの感情」
自分を守るため、自分を傷つける敵を攻撃することは欠かせない
夢の記録
セラピストは傷つきを自身の体験として受け止めることが重要。「傷つく力」の能力が欠かせない。
こころを開き、自分のこころを使って、こころの作業をする必要がある=夢を見て、記録すること
セラピストもまた、スーパーヴァイザー(指導者)や職場の上司による守りや支えが不可欠。
母親の傷つき
子どものことで相談する時には、母親自身も傷ついている。
私たちは皆、子ども時代に傷つきを経験する。個人差があるとすれば、程度の違いがあるだけ。
私たちは自分の苦しみや痛みを通してしか、人の苦しみを知ることができない。
親が子ども時代の苦しみに向き合うことで初めて、自分の子どもが守れる。
真吾の母は、厳しい、古い考えで支配する祖母(実母)と真っ向から闘った。
「息子を体罰で教育しても、こころは育たない」と訴えるも、祖母は、
「孫の面倒をみている自分に感謝こそすれ、親に説教するなんて許せない」と激怒し、セラピストにまで「何を吹き込んだんだ!」と責めた。
母親は「年寄りは頑固ですから。自分が責められているように感じているんだと思います」(そうなんだよね
内と外の守り
学校は子どもを「管理する」という立場をとる。
親による日常での外の守り+セラピストによる心理的な守り(こころの領域)が必要。
こころの傷つきの援助は相互的なもので、人を癒すことは、また相手から癒されることでもある。
両親の関係
子どもは親を選択できないばかりか、「両親の関係」は、子どもが対処できる領域ではないにも関わらず、
「両親の関係」によって翻弄され、大きな影響を受けてしまう。
「子はかすがい」と言うが、「子どものために離婚できない」といって、
自分たちの問題を「子どものせい」に置き換える夫婦がいることも事実。
こうした夫婦は、子どものせいで自分は我慢を強いられていると「被害者意識」をもちやすい。
順子の例で母親は、結婚当初から夫を信頼していなかったと語った。
順子は、母から一身に期待をかけられ、理想を背負わされていた。
表面的には理想的な家族に見えても、仮面の下には、両親の間に「不信と怒り」が渦巻いている。
こうした「両親の関係」からは、子どもは支えと守りは得られない。
事例5:
明るく、元気なアリサは、近所のごみ収集所の生ごみを食べる癖があった。
両親が離婚し、母はアリサを施設に入れようとしたので、父が引き取った。
父は再婚しており、新しい継母には妹、弟が産まれた
箱庭に表現された世界には枠がなく混沌としていて、境界例(境界性人格障害)の特徴があった。
本来は同一セラピストが母子並行面接を行うことはないが、職場の都合で同じ担当者となり、
アリサが週1面接なのに、継母は隔週なのに不満を抱き、「送り迎えをやめたい」と交換条件のようなことを言われた。
アリサを愛せなかった継母の背景には、「忙しい」「疲れている」と子育てを妻任せにしている夫への不満があった。
事例6:
中学3年生の真理子は「選択性緘黙(かんもく)症」。家で話せても、外では話せない。
両親は性格の違いからケンカが絶えなかった
真理子の姉は不登校、弟は喘息、父は無関心、母にとっては元気な真理子だけが唯一の救いだった。
本来生まれ持った資質がどんなに優れていても、家族の支えと守りが薄ければ、現実の困難にぶつかった時、乗り越えることができない。
世間では緘黙や不登校は悲観的に取り上げるが、これは「こころが傷ついている」ことを自覚する契機となり、
回復させようとする無意識の働きでもある。
切り離していた傷つきを引き戻して、痛みを感じることで、傷を癒すという作業を行っている。
家族の窓口
誰が「家族の窓口」となるかは重要なテーマ。
だが苦しむ子どもを持つ当事者である家族が支えるという役割を担わなければならないのは難しい。
こころに支えのない人は、自身に降りかかった困難を乗り越えるだけでもとても大変。
傷ついた子どもがいる家族は、家族全体が傷ついている。窓口である親もセラピストに支えられることが必要。
「家族の窓口」となるのはどうしても母親が多い。
母親が家族の問題から逃げずに正面から向き合い、必死に取り組むことができるかどうかにかかっている。
事例にある幹夫は「こころの世界を言語化する才能」にも恵まれていた。
家族に窓口になれる親がいない子どもには、いる子どもより高い能力や才能が与えられているのではないかと思うことがある
本来は自身のこころと取り組むことによって、内的に母親と対決していくことが心理療法の基本。
大人は、良かれと思って子どもに無理強いをさせてしまうことが多い。
事例7:
裕司はLD(学習障害)。特別支援学級に通っても一向に回復せず、引きこもりになる。
経験の浅いカウンセラーから「治る見込みがない」と言われた母は「この子が死んでくれたら・・・」と思ったという。
当時のセラピストの職場では、義務教育の期間しか面接ができないという事情があった。
初めての面接で裕司はセラピストに「四番目の弟子にしてあげる」とゆってくれた。
無意識的なこころの動きは目には見えないが、子どもは大人よりもそれをキャッチする能力が高く、
裕司のような子どもはとくにその能力が高いといえる。
子どもの「こころの病」は、大人の「こころの病理」の表れ
人には、容姿・態度・印象といった外側と、内面がまったく対極的であることがある。
そのギャップが子どもを混乱の世界に陥れる。
言葉では「わたしの育て方が悪かったのかもしれません」と言っても、本心ではそう思っておらず、
「子どもの問題行動は子ども自身の問題」として捉えていて、言葉上のポーズとして言ったに過ぎないことも多い。
無意識の「心的感染」
両親が“いい人”を演じるほど、子どものこころの中の「悪」が強化され、家庭内暴力を起こさざるを得ない状況に追い込まれる。
自分が世間から“いい人”と言われていたいために、ほかの誰かに「悪」を押しつける深層心理を「投影」という。
子どもが起こす問題には、親の未解決な問題が、親から子へと世代間で引き継がれることが多い。
現代の子どもたちのこころの病理のほとんどは、大人たちによって「心的感染」させられたものといえるのではないか。
大人が自らのうちに存在する切り捨てられた「傷」を自覚し、回復しようとすることが求められる。
ミュンヒハウゼン症候群(虚偽性障害)
症状を意図的に捏造し、病者を演じる。“ほらふき男爵”の名からきてる/驚
近年日本でも増え、京都府内の病院にアンケート調査した結果、
15のうち9つの病院でミュンヒハウゼン症候群が疑われる母親が来院したことがあるとの回答があった。
虐待という心的感染
虐待する大人のこころの中には「傷ついた子ども」がいる。
頭(意識)ではいけないと分かっているが、無意識から突き上げる衝動が強く理性で抑えられない。
自分を傷つけた親に対して「怒り」を感じられるということは、「傷つき」を回復する最も重要なファクター。
「しつけ」という大人の押しつけ
「子どもは未熟だから、しつけや教育をしてあげなければならない」という従来の論法は正しいか?
子どもは、表面的に大人に服従しても、こころの中で信頼していないことが珍しくない。
「殺人は悪い」というような一方的な正論や理屈を押しつけることは逆効果でしかない。
なぜなら子どもたちは「善悪」はいやというほど理屈では分かっているが、強い衝動は意識的にはどうしようもないから。
いじめの背後にある大人の影
いじめで面接に訪れる子どもの背景には必ず「大人たちの犠牲」になった子どもの姿が見えてくる。
いじめっ子も、いじめられっこも、実は“大人たちの犠牲者”。
いじめっ子は、もともと性格が悪いからではない。
現代の子どもたちは、さまざまな形で大人から抑圧されている。
「子どもは何も分からない」という思い込みや、「教育」「しつけ」という言葉で正当化された「命令」により
「大人の言う通りにしなさい」という圧力を受けている。
大人たちから押しつけられた「良い子」という幻想や干渉に耐え切れなくなり、いじめる行為で「はけ口」を求めている。
いじめっ子も、実は大人から暴力的・心理的「いじめ」を受けている。
大人が子どもいじめる時も、子どもが子どもをいじめる時も構図は同じ。まさに「いじめの連鎖」。
まず、大人自身が子どもへの有形無形の「いじめ」を止めなければならない。
いじめられっ子の背景は大人の不安
親から常に不平不満を聞かされていたり、親が心理的に子どもに依存していると、子どもの内界は不安定になる。
大人の吐き出すネガティブな「毒素」を飲まされた子どもには、それを解毒する機能が働かないため、こころ全体が機能不全になる。
「いじめっ子」は、こころに不安のある子どもを敏感にキャッチし、生贄を捉える能力がある/驚
裏返すと、大人にこころを守られ、不安を抱えていない子どもをいじめることは難しい。
我が子を「いじめの対象」にさせたくないなら、大人が自分の不安を子どもに押し付けないこと。
不登校は無意識からの信号
こころの問題を回復させるために、無意識から「動くことにストップがかかった状態」。
何もないかのように無理して現実の世界で動いているほうが、回復から遠のいてしまう。
大人自身が「頭で考えることの限界」を自覚して、「自身のこころを通して、子どもの傷を体験すること」が前提となる。
「子どもの問題行動や症状」は、子どもたちが自分の身を犠牲にして、
未解決のまま放置されている大人の問題を表してくれているのだと捉える。本来子どもたちには何の罪もない。
心理療法家(サイコセラピスト)&精神科医(サイキアトリスト)の違い
精神科医:患者の症状に対して薬を処方する。
サイコセラピスト:来る人を患者ではなく「クライエント(相談者)」と呼び、クライエント自身がこころの問題を解決する作業を援助する。
時には本人に会わずに窓口との面接だけで治癒することもある。
家族(とくに母子)は“こころの深層”で繋がっていて、大人は子どもに強い影響を与えているから。
サイコセラピー
無意識という“こころの深層”からの働きかけを捉えようとする作業。
悲痛なメッセージを自分のこととして受け止め、苦しみを共有する。
セラピストが苦しみ・痛みを自覚し、回復に向けて内的なプロセスを展開できた時
クライエントのこころが治癒するプロセスが始まり、変化する。
サイコセラピーは、クライエントが回復するために、セラピストとともに苦しい過程を歩まなければならない。
「世間一般常識」という弊害
「薬を飲んでも治らない」「マニュアル本を実行したが悪化した」ということも多い。
一見正しい方法は、皮肉にも子どもを追い詰め、回復を遅らせることになる。
人の意識的なエネルギーは無限ではないので、下手に動き出すと、エネルギーが外的な方向(意識的)に流れ、
治癒のために使わなければならない内的な方向(無意識)に使われなくなる。
動物が怪我した時、暗い場所で治癒するまでじっとうずくまっているように、
人も引きこもってじっとしているほうが回復する可能性がある。むやみに外に出るよう誘わない。
現代は、可能性があるにも関わらず、能力を発揮できない子どもが多い。
大人たちの勝手な思い込みや、誤ったアドバイスによって、子どもの回復を阻害している。
「悪」の大人に対しては、子どもは怒りを向けやすいので、子どもが助かる見込みがあるが、
皮肉なことには、それが悪意でなく、「良かれ」と思って一生懸命にやるためにとどまるところを知らない。
精神が破綻するまで我慢する子どもたち
多くの子どもは精神が破綻するまで限界を超えて無理をして我慢してしまう。
その結果、無気力や集中困難などのうつ症状、さまざまな神経症状、精神疾患という形で表出する
これは、無理に意識的な努力で頑張って動いたため、状態を悪化させたため。
子どもは、内側に何も起きていないのに怠けるということはない。
不安神経症状のある子どもは、集団に入ると想像しただけで体が動かなくなったり、パニック発作になることもある。
こころと体は密接に繋がっている。
怒りは、ときに治療促進的に作用する。
子どもが大人の攻撃に対して怒りを行動化すると「大人を苦しめる加害者」扱いされてしまい、ますます傷つく。
意識に刷り込まれた“一般常識”に捉われないことが、本当の回復への第一歩。
だが、固定観念に縛られやすい大人には最も苦手なこと。
「治療空間」としての「昼夜逆転」
「昼夜逆転」は回復のための守り。大人はそれを罪悪視し、なんとか健康的な生活リズムに戻そうと躍起になる。
朝は慌しさの中で動けない自分を強く自覚させられ、ますます不安に襲われる。→眠っていれば不安から守られる。
こころを根底から回復させるため、無意識が朝は眠らせようとしている。
治癒を促進し、精神を守るために無意識が機能している。
「基本的生活習慣」はこころが回復してから。それまでは、できるだけ外部をシャットアウトしたほうが安全。
テレビゲームや漫画はファンタジーの世界
ファンタジーの世界に入ることは「治療空間」に守られることでもあるのだと理解する。
「治療空間」にこもる子どもを、親がどう「見守る」かが重要なファクターとなる。
子どもを放置することではない。親がどれだけ自分の痛みとして感じ、共有できるかが「見守る」ということ。
回復のプロセスは神話と共通している
神話は人の無意識を映し出しているといわれている。
【神話】
日本の国土が荒れて途方に暮れたオオナムチ(大国主)。常世の神(医療神)スクナビコナが助けて国を救った。
ふたたびオオナムチが己の限界を自覚して困っていると、こんどはオオモノヌシ(常世の神)が現れて、国土を平定した。
祟神天皇の時代に疫病が蔓延し、夢にオオモノヌシが現れ、「常世の神を祀れ」と言われ、そうした結果、疫病は治まった。
現代においては、危機的状況は「こころの問題」として表れている。
元型
無意識に由来する「元型」の力を忘れ、意識的努力だけに頼ろうとしたことで「祟り」が起こったというのが神話の意味。
戦後の日本はあまりのスピードで“目に見えるもの=物や金”の発展を急ぎすぎたために、
意識が外側ばかりに向いて、内側の無意識は置き去りにされてきた。
神性な場所
傷を自覚し、分断された意識と無意識の通路が繋がって“回路”が開く。
次は痛みと並行して、傷つけた相手に怒りがおきる。痛みと怒りの強さは比例する。
夢体験、イメージ体験の中で傷つけた対象を切断、殺害することができる。
このようなこころの作業なしに放置すると、日常で突然「アクティングアウト(行動化)」をして悲劇的な事件が起こる。
児童文学『小公女』の世界
読書やゲームは、ファンタジーの世界で疲れたこころを回復させる機能があり、現実社会に適応するためのある種の防衛。
その本質を知らずに、大人が頭ごなしに否定すべきではない
『小公女』で子どもに学ばせるべき点
1.他人の人格を尊重する
2.他人を理解し、信頼し、寛容の態度を持つ
3.平等と公平な態度で他人に接する
4.他人に対して尊敬と感謝の念を持つ
しかし、こうした能力は教育やしつけから得るものでなく、子ども本来のこころにすでに備わっている。
「ごっこ遊び」は心理学的にいう「投影」
子どもは空想の世界で生き生きと生きることができ、こころのエネルギーを蓄え、新たな創造をし、
傷ついたこころを回復させていく。
子どもの遊びに嫉妬し、批判する大人たち
現実の世界を生きることで精一杯な大人は、勉強(労働)をせずに遊んでいる子どもを、“怠けている存在”とみなしてしまう。
大人のこころの深層にいる“傷ついた子ども”が「嫉妬」し「攻撃」する心理が隠れている。
『小公女』のセーラが持っていた「財産」はお金や物ではなく、「ごっこ遊び」で培われた「空想できる能力」と、
父から惜しみなく与えられた愛情。これは意地悪なミンチン先生にも決して奪うことはできなかった。
自分も空腹なのにホームレスの少女にパンを分け与える思いやりも失わなかった。
それは、セーラの中に、他人に分け与えても余りある“こころの財産”があったから。
真の幸福とは何か
セーラの「屋根裏部屋」は「治療空間」としての機能を果たしている。
あまりに日常が過酷な場合、日常に引きずられ、なかなか「非日常空間」であるファンタジーの世界で遊べなくなる。
その場合、日常世界(現実)が非日常空間に侵入してこないよう区切る必要がある。
「心理面接室」もある種の「非日常空間」。こころの傷と向き合い、自覚し、回復していく。
人は、現実で行き詰まり、意識ではどうにもならない限界に置かれた時、「非日常空間」に引きこもり、
ファンタジーの世界で遊ぶことができれば、無意識の力が動きだし、「偶然」という形で「幸福へ通じる扉」開かれる。
「幸福へ通じる扉」を開く無意識の力は誰もが持っているもの。
内側(こころ)の目
自身の「内側(こころ)の目」を持つこと。「外側(現実)の眼」では、誰にも奪えない“真の幸福”への扉は見つからない。
他者のこころは、自分のこころを通してしか理解することはできない。
昔話『舌切り雀』
昔話は、人の無意識を映し出す。
人は“こころの傷”を放置したまま年老いると、不平不満が多くなり、世の中を恨むようになる。
そして、子どもに「私のことを心配して。大切にして」と主張する。
これは“得をしたい、注目されたい”という欲望の表れ。
『舌切り雀』の欲張りお婆さんが大きなツヅラを選んだのは、「外側(意識)」の世界で得をしたいという欲望の表れ。
「外側(意識)」の欲求が満たされないと、「あなたも歳をとったら、私のようになるわよ」と“呪い”をかける人がいる。
大きなツヅラの中に化け物が詰まっていたように、「内側(無意識)」の世界が荒んでいることの表れ。
そんな大人から呪いをかけられた子どもは、歳を重ねるのが怖くなり、意識と無意識を切り離してしまう。
不満だらけの年老いた親を“守る”ようになる。
本来親が子ども守らなければならないのに、子どもが親を守るという“逆転現象”が起こる。
世間の“親を大切にする子ども”の美談も拍車をかけている。
子どもたちは、自らが「こころの病」に苦しむ姿を通して、大人たちに“こころの傷”の存在に気づかせ、
自覚し、回復させなければならないことを教えてくれている。
子どもへの「嫉妬羨望」を持つ大人
大人から「心理的な我慢」をさせられて育った子どもは、成長すると、わがままな大人になる。
世間では「子どもを甘やかすとロクな大人にならない」「子どもに我慢をさせると立派な大人になる」という極端に偏った論調がある。
その根底には、子どもに対する大人の「嫉妬羨望」の心理が隠れている。
ある程度子どもとしての権利の範囲でわがまま(自由)ができた子どもは、
大人になった時、自己中心的なわがままをするという悪質な欲求を満たす必要がない。
我慢にはさまざまある
1.物質などに対する欲求への我慢
2.物心がついた時から、母親の不平不満ばかりを聞かされ、拒絶できずにいた「我慢」
2の子どもは、外側のちょっとした刺激に対しても強い不安反応が起きる。
“世の中は悪意に満ちている”という妄想に支配され、「摂食障害」として表れる場合もある。
「拒食症」も「過食症」も口に入れる食べ物(母の愚痴)を排除する行為と捉えられる。
母親の苦労を見て育つ子どもは幸せか?
「孝行話」も「我慢」の一例で美談とされている。孝行話を極端に言い換えると
「子どもを不幸せにした母親は大切にされるべきで、
子どもを幸せにした母親は大切にされるべきではない」となる。
「苦労を見せる=子どもに大切にされる」というおかしな構造が、子どもに心理的被害に遭わせている。
母親の心理的荷物を持たされた子どもは、不安定になり、人間関係が依存的になるなど、さまざまな症状がおきやすい。
貧困、戦中であれば、子どもにも問題は起きない。現実が混乱に満ちた危機的状態だから
現代は、自分のこころの荷物だけで十分であり、母親の苦労を背負う必要はない。
子どもを幸せにした親は、将来自分が子どもに大切にされることを望んでいるわけではない。
子どもに苦労を見せてしまうのは、困難な状況に対する自身の捉え方に問題があるから。
「苦労」と捉えるか、そうでないかで、子どもに与える影響が大きく変わる。
母「お母さんは、あなたのためにこんなに頑張っているのよ」
子「わたしのために、苦労をかけてごめんなさい」という罪悪感を持つ。
母「思い切り仕事をさせてもらって有難い」
母親本人も苦労しているとは思っていない。
専業主婦でも同様。
母「家事が忙しい、大変だ」
子「わたしのために、苦労をかけてごめんなさい」という罪悪感を持つ。
母親のこころの中の子どもが自由に生きていれば、目の前の子どもの気持ちを自然にキャッチすることができる。
なぜ虐待をするのか
母親から暴力、無視、放置などに遭うたび、子どもは怒りを感じるどころか、
逆に「自分がいけない子だからお母さんが怒るんだ」と自分を責めるようになる。
虐待はまさに大人のわがままで身勝手な行為。
母親のこころの治療をしない限り、どんなに子どもを一時保護しても虐待の悲劇はなくならない。
赤ちゃんはみな世界の中心で、特別な存在
「甘やかす」ことも悪いと思われているが、それは大人の視点。
子どもが甘えるのは、自然で当たり前。
すべての子どもは特別な存在として、世界の中心として生まれてくる。
もし、大人が子どもに甘えているなら、そのほうが不自然で異常。だがその現象は珍しくない。
甘えを許されず、逆に大人の甘えを受け止めなければならない子どものこころは、他者の顔色をうかがうようになり、自立が難しい。
内なる赤ちゃん
大人の中の“内なる赤ちゃん”は存在し続け、こころの中心にいる母親に依存しなければ生きていけなくなる。
こころの中心に自分がいないために、現実世界で、自分が中心にいなければ不安に襲われ、
周囲に向けて「わたしを見て!」とアピールするようになる。
乳児期の母子一体化
3~4ヶ月の赤ちゃんはまだ自我が確立されておらず、自分と他者が分離されていない。
母親を部分対象として捉えているといわれている。=乳児期の母子一体化
十分に甘えた赤ちゃんのほうが、不安も少なく、困難を乗り越えられるような精神力が強い大人になる。
メディアは「働くお母さんのために保育園を増やせ」と叫ぶが、当事者の赤ちゃんの視点がないのはおかしい。
老いとイラ立ち
赤ちゃんを傷つける母親は、“老い”という形でイライラが多くなり、世の中を恨む症状が出る。
これは老いとともに表れるのが当たり前と思われているがそうではない。
加齢とともに、意識のエネルギーは減少するが、無意識からエネルギーを上げることができれば、
何歳になっても生き生きと生きていくことができる。
こころは老いることはない。内的に機能している人は、歳を重ねるほど、さまざまなことを吸収し、感性も理解力も伸びる。
赤ちゃんとのコミット
赤ちゃんとのコミットは、母親の内なる赤ちゃんも活性化される。
0歳~3歳まではとくに、国家予算よりも価値のある時間(財産)である。
かつて日本ほど子どもを大切にした国はなかった
「今の子どもは甘やかされている。昔は厳しくしつけられた。親孝行もした」
この「昔」とはいつをさすのか?戦前・戦中・戦後の異常事態
男は全員兵隊にとられ、女子どもだけで国を支えなければならないから、
「我慢しなさい。お母さんを助けるように」と刷り込むことが必要だった。
明治初期。訪日した動物学者エドワード・シルベスター・モースは、
「日本ほど子どもを大事にする国を私は初めて見た」と記した。(『日本その日その日』平凡社東洋文庫)
「日本人が子どもを叱ったり、罰したりしないというのは、少なくとも16世紀以来のことだったらしい」(『逝きし世の面影』平凡社)
それ以前は鎖国をしていたため、それよりはるか昔から、日本は子どもを大切にする文化を継承していた。
江戸時代初期。訪日した貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、
「日本人は刀で首をはねるのは何とも思わないのに、子どもを罰することは残酷だと言う」
「日本の子どもは非常に美しくて、6、7歳で道理をわきまえた優れた理解をもっている。
しかし、その良い子どもでも、父母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子どもを罰したり、教育したりしないからである」(『大航海叢書』『日本王国記』岩波書店)
戦国時代。織田信長に謁見したことがあるイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、
「われわれは普通、鞭でうって息子を懲罰する。日本では滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」
「ヨーロッパの子どもは青年になっても口上ひとつ伝えられないが、日本の子どもは10歳でも、それを伝える判断と思慮において50歳にも見られる」(『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波書店)
子どもを甘やかせるなという風潮の背景
戦争前後の混乱と貧困の社会では、子どもに自由を与えるわけにはいかなかった。
現在、平和で豊かな先進国に180度変わったにもかかわらず、当時の親子関係がズルズルと継承されている。
戦争前後を生きた人たちは、自分が幼少期に負った不自由さを次の世代に投影し、「子どもを苦しめよう」とする心理が働いている。
世界が変わり、親は子どもを守らなくなったのに、子どもは親を助け、支えるという片側の面だけは当然のように引き継がれている。
その上「今の子どもは昔に比べて贅沢をしている」という嫉妬からくる「攻撃」まで加わっている。
「この心理感染をどの世代で断ち切るのか」が問題。今、解決しなければ、次世代に回すことになる。
頭は教育できても、「こころの教育」はできない
心理学的には、“こころ”は、意識(頭)+無意識も含む。
意識は教育によって変えられるが、無意識は教育できるものではない。
「無意識」は「意識」を動かせても、「意識」によって動かされることはないから。
現実とバーチャルが混在して殺人鬼になるか?
かつて仁侠映画が流行っていた時代、高倉健の「死んでもらいます」というセリフが人気を集めた
それを観た観客が実際に人殺しをしたという事件はない。
人のこころはそれほどカンタンに操作されるようなメカニズムにはなっていない。
「悪」体験の必要性
現代の子どもは、ちょっとした悪戯もできないため、テレビゲームの世界で「悪」体験をするしかない。
かつてないほど、どこからでも見通しよく大人たちから監視される社会になっているから。
「悪」体験は、「善」体験と同じくらい必要。(昔なら秘密基地、近所の柿を盗むなど
秋葉原無差別殺人事件の犯人の予備軍のような患者は
「嫌というほど、正しいことばかり教育されてきたが、人殺しの衝動は下のほうから勝手に沸きあがってくる」という。
共通点は、幼少の頃から正しいことばかりを強要されてきたということ。
暴力的な漫画やゲームを取り上げられ、テレビを絶対的に禁止されて観たこともないという人もいた。
教育では衝動を抑えることは不可能。こころは教育するものではなく、支え守るもの。
その子のこころがいかに傷ついているかを理解するところから始めなければならない。
【あとがきメモ】
本書は10年前に書いた原稿と、雑誌『灯台』に連載した記事を基に加筆修正した。この10年間で状況はほとんど変わっていない。
筆者の指導者は、ユング派分析家・織田尚生(たかお)さん(故人)。
織田さんの教えは「だれにも可能性があるのではないでしょうか」。これが筆者を支え続けてきている。
網谷由香利/著
サイコセラピストである著者のプロフ写真を見ると、まだ若くて美人さんなのに驚いた。
でも、かなり心理を勉強された上、現場でのキャリアも長いようで、
実際セラピーを受けたクライアント(相談者)の実例(仮名による)をあげて説明しているので
とても具体的で分かりやすく、「心理学なんて難しい」と思っている人でも読みやすい文章や構成の工夫がなされている。
「子どものこころがわからなくなったらこの本をお読みください」と裏表紙にコピーが書かれていて、
まえがきで著者が訴えているように、問題のある子どもを抱えていても、今問題がなくても、
まだ出産・結婚していなくても、とにかく大人に積極的に読んで欲しい1冊だと思う。
「今の子どもはまったく・・・」「親殺しなんて、キレる子どもは怖い」などと表面的な善悪で単純に判断せず、
その背景にある家庭環境、誰にとっても身近な親子関係について、
世の中のみんなで考えていきたい、いかなきゃならない切羽詰った状況にあるんだと思う。
【内容抜粋メモ】
またまた長くなってしまったことをお詫び申し上げます(なにせ自分とのリンクが山ほどあったので
子どもの不登校や引きこもりは、こころ(無意識)からの警告であり、
無意識が意識に対して働きかけ、動くことにストップをかけていると捉えることができる。
それに逆らって無理に動かそうとすると、せっかくの回復のチャンスを逃してしまう。
子どものこころはどんな時に傷つくか
守りのないとき、誰も守ってくれる人がいないとき。
事例1:
離婚家庭で不登校になった幹夫。父は死んだと聞かされていたが、生きていて、写真の頭部だけが切り取られていた。
妻が夫を憎むことは自由だが、その憎しみの気持ちと向き合わなかったことが根底にある。
学校でささいな事件があってキレた幹夫。
少年のこころにもう少しゆとりがあれば、学校での対人関係も乗り越えることができ、居場所を失うような事態にはならなかった。
大人はしばしば、自分が解決できない問題を、気づかずに子どもに背負わせ、押し付けてしまう。
家族による支えと守りがあれば、子どもは自分でこころの傷を修繕することができる。
布置
家族は人間関係の原点。私たちは、それぞれが課題を背負って生きている。
家族もまた一つの人格を持ち、その家族特有の課題を担っていることをユングは「布置」といった。
布置はこころが意識しないところで生じる。
事例1の場合、母の「憎しみ」「怒り」を、家族のほかのメンバーが身代わりになって背負わされている。
親に話せるかどうか
とくに傷つきの出来事について親に話せるかは、とても大切な問題。
語ることは癒す反面、「新たに傷つき直す」という面もある。傷が大きいほど打ち明けるのは難しい。
無理に語らせようとするのは、支えや守りにならない。
語ることで改めて傷を再体験するという辛さを乗り越えるには、対人関係による守りをもってする以外にない。
成長モデルとしての親
子どもはたいてい同性の親をモデルとして大人になる。父母は一番身近にいる大人で、子どもの将来の目標にもなる。
親子関係で傷ついているほど「あんな大人になりたいくない」と思い、
子どもを持つことや結婚することさえ受け入れないこともある
比較的傷つきの浅い子どもの場合は、親を反面教師として自立する例も多い。
「内なる父親」の傷つき
人の中の父親のイメージ。実際の父親そのものではなく、異なる特徴を持っている。
私たちのこころの世界を特徴づけたり、支配するのは、現実の父より、むしろ「内なる父親」の影響力。
「良い子」の傷つき
「良い子」と言われる子どもほど傷つきやすい。
良い子とは「大人にとって都合のいい子」、つまり攻撃性を発揮できず、
自分より強いと思われるものに立ち向かう勇気を持たない、自分を守れない子ども。
常に親や教師の期待に応えようと無理して頑張り、自分を傷つけてしまう。人からも容易に傷つけられてしまう。
子どもの世界も決して美しいだけではない。
人のこころの中にある「怒り」や「憎しみ」を忘れてしまえば、人権や平和の理想からはかえって遠くなるだろう。
事例2:
正義感が強く、汚いものを毛嫌いする母のもとで育った順子は、学校でのいじめを止めさせ、自分がいじめられて不登校になった。
母が代わりに心理療法を受けることによって、順子の摂食障害を伴う不登校は克服された。
母の偏った価値観を娘に押しつけることの誤りに気づいたことが、娘のこころの回復になった。
こころの全体性
「悪」もまた存在するという現実を知り、その現実に正面から向き合うことで傷つきから回復するのが本来の癒しである。
このような癒しを、クライエントとの人間関係を通して援助するのが心理療法。
明るい家族は健康か?
メディアの価値観に支配され、それが「絶対的である」ようになってしまう。
「明るい子どもはすばらしい」→「明るくなければならない」という一面的な考えに苦しむ子どもはたくさんいる。
「暗さ」も含む自然な自分から切り離され、こころがバラバラになる。
事例3:
理想的な中学生だった健太が「自律神経失調症」と診断され2年近く引きこもる。
小さい頃から喘息を抱えていたことが家族だけの秘密で、手術を繰り返して回復した途端になぜか体調不良、引きこもり、不登校となった。
彼に「明るさ」のみを求める家族。
「弱さ」「暗さ」など一般的にマイナスの評価しか受けない特性をどれだけ大切にできるかが問われている。
マイナスの側面も、子どもの一部として尊重する必要がある。
子どもとのコミュニケーションにマニュアルはない
人にこころを開くのは、相手が自分を分かってくれていると感じる時。
子どもに対して言葉をかけるよりも、子どもの話を聴くことが何よりも重要。
言葉は目的ではなく、こころを運ぶ手段だということを忘れてはならない。
子どもの頃の自分を思い出す
親子関係の問題は、親が自分を振り返ること抜きには解決しない。
セラピストは心理療法の中で、父母の「思い出し作業」の手伝いをする。
子どもは親に「大切なもの」と思われることで初めて、自身を大切にできる。
現代ほど親が子どもを「守る」力が弱くなった時代はいまだかつてない。
事例4:
小学1年生の真吾は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)で、学校でも家庭でも困り果て心理療法を受けた。
親の離婚により、仲の良かった父との別離、継父の厳しいしつけがあった。
守られない子ども
どんな子どもも多動で衝動的な傾向はある。
彼は「大人の指示に従わなければならない時に、自分をコントロールできない」という特徴を拡大して見せてくれているだけ。
遊び治療(プレイセラピー・遊戯療法)例:「箱庭療法」など
子どもは遊びの世界の中で傷ついた自分のこころを表現する力を持っている。
大人も子ども、緊張、疲れ、傷つきから解放されるためには遊びが必要。
子どものこころは死の世界にとても近い。
理想化される父親
3歳~5歳頃の男の子にとって、お父さんは極端に理想化され「自分を守ってくれる強い男性」と思い込む。
家族を守るための父親の働きは大きい。
「新しい父は嫌いだが、それを言うとママが悲しむ」という真吾。
子どもはしばしば立場を逆転させて「親を守る役割」をとらされていることがある。
情動の中でも特に大切なのは「怒りの感情」
自分を守るため、自分を傷つける敵を攻撃することは欠かせない
夢の記録
セラピストは傷つきを自身の体験として受け止めることが重要。「傷つく力」の能力が欠かせない。
こころを開き、自分のこころを使って、こころの作業をする必要がある=夢を見て、記録すること
セラピストもまた、スーパーヴァイザー(指導者)や職場の上司による守りや支えが不可欠。
母親の傷つき
子どものことで相談する時には、母親自身も傷ついている。
私たちは皆、子ども時代に傷つきを経験する。個人差があるとすれば、程度の違いがあるだけ。
私たちは自分の苦しみや痛みを通してしか、人の苦しみを知ることができない。
親が子ども時代の苦しみに向き合うことで初めて、自分の子どもが守れる。
真吾の母は、厳しい、古い考えで支配する祖母(実母)と真っ向から闘った。
「息子を体罰で教育しても、こころは育たない」と訴えるも、祖母は、
「孫の面倒をみている自分に感謝こそすれ、親に説教するなんて許せない」と激怒し、セラピストにまで「何を吹き込んだんだ!」と責めた。
母親は「年寄りは頑固ですから。自分が責められているように感じているんだと思います」(そうなんだよね
内と外の守り
学校は子どもを「管理する」という立場をとる。
親による日常での外の守り+セラピストによる心理的な守り(こころの領域)が必要。
こころの傷つきの援助は相互的なもので、人を癒すことは、また相手から癒されることでもある。
両親の関係
子どもは親を選択できないばかりか、「両親の関係」は、子どもが対処できる領域ではないにも関わらず、
「両親の関係」によって翻弄され、大きな影響を受けてしまう。
「子はかすがい」と言うが、「子どものために離婚できない」といって、
自分たちの問題を「子どものせい」に置き換える夫婦がいることも事実。
こうした夫婦は、子どものせいで自分は我慢を強いられていると「被害者意識」をもちやすい。
順子の例で母親は、結婚当初から夫を信頼していなかったと語った。
順子は、母から一身に期待をかけられ、理想を背負わされていた。
表面的には理想的な家族に見えても、仮面の下には、両親の間に「不信と怒り」が渦巻いている。
こうした「両親の関係」からは、子どもは支えと守りは得られない。
事例5:
明るく、元気なアリサは、近所のごみ収集所の生ごみを食べる癖があった。
両親が離婚し、母はアリサを施設に入れようとしたので、父が引き取った。
父は再婚しており、新しい継母には妹、弟が産まれた
箱庭に表現された世界には枠がなく混沌としていて、境界例(境界性人格障害)の特徴があった。
本来は同一セラピストが母子並行面接を行うことはないが、職場の都合で同じ担当者となり、
アリサが週1面接なのに、継母は隔週なのに不満を抱き、「送り迎えをやめたい」と交換条件のようなことを言われた。
アリサを愛せなかった継母の背景には、「忙しい」「疲れている」と子育てを妻任せにしている夫への不満があった。
事例6:
中学3年生の真理子は「選択性緘黙(かんもく)症」。家で話せても、外では話せない。
両親は性格の違いからケンカが絶えなかった
真理子の姉は不登校、弟は喘息、父は無関心、母にとっては元気な真理子だけが唯一の救いだった。
本来生まれ持った資質がどんなに優れていても、家族の支えと守りが薄ければ、現実の困難にぶつかった時、乗り越えることができない。
世間では緘黙や不登校は悲観的に取り上げるが、これは「こころが傷ついている」ことを自覚する契機となり、
回復させようとする無意識の働きでもある。
切り離していた傷つきを引き戻して、痛みを感じることで、傷を癒すという作業を行っている。
家族の窓口
誰が「家族の窓口」となるかは重要なテーマ。
だが苦しむ子どもを持つ当事者である家族が支えるという役割を担わなければならないのは難しい。
こころに支えのない人は、自身に降りかかった困難を乗り越えるだけでもとても大変。
傷ついた子どもがいる家族は、家族全体が傷ついている。窓口である親もセラピストに支えられることが必要。
「家族の窓口」となるのはどうしても母親が多い。
母親が家族の問題から逃げずに正面から向き合い、必死に取り組むことができるかどうかにかかっている。
事例にある幹夫は「こころの世界を言語化する才能」にも恵まれていた。
家族に窓口になれる親がいない子どもには、いる子どもより高い能力や才能が与えられているのではないかと思うことがある
本来は自身のこころと取り組むことによって、内的に母親と対決していくことが心理療法の基本。
大人は、良かれと思って子どもに無理強いをさせてしまうことが多い。
事例7:
裕司はLD(学習障害)。特別支援学級に通っても一向に回復せず、引きこもりになる。
経験の浅いカウンセラーから「治る見込みがない」と言われた母は「この子が死んでくれたら・・・」と思ったという。
当時のセラピストの職場では、義務教育の期間しか面接ができないという事情があった。
初めての面接で裕司はセラピストに「四番目の弟子にしてあげる」とゆってくれた。
無意識的なこころの動きは目には見えないが、子どもは大人よりもそれをキャッチする能力が高く、
裕司のような子どもはとくにその能力が高いといえる。
子どもの「こころの病」は、大人の「こころの病理」の表れ
人には、容姿・態度・印象といった外側と、内面がまったく対極的であることがある。
そのギャップが子どもを混乱の世界に陥れる。
言葉では「わたしの育て方が悪かったのかもしれません」と言っても、本心ではそう思っておらず、
「子どもの問題行動は子ども自身の問題」として捉えていて、言葉上のポーズとして言ったに過ぎないことも多い。
無意識の「心的感染」
両親が“いい人”を演じるほど、子どものこころの中の「悪」が強化され、家庭内暴力を起こさざるを得ない状況に追い込まれる。
自分が世間から“いい人”と言われていたいために、ほかの誰かに「悪」を押しつける深層心理を「投影」という。
子どもが起こす問題には、親の未解決な問題が、親から子へと世代間で引き継がれることが多い。
現代の子どもたちのこころの病理のほとんどは、大人たちによって「心的感染」させられたものといえるのではないか。
大人が自らのうちに存在する切り捨てられた「傷」を自覚し、回復しようとすることが求められる。
ミュンヒハウゼン症候群(虚偽性障害)
症状を意図的に捏造し、病者を演じる。“ほらふき男爵”の名からきてる/驚
近年日本でも増え、京都府内の病院にアンケート調査した結果、
15のうち9つの病院でミュンヒハウゼン症候群が疑われる母親が来院したことがあるとの回答があった。
虐待という心的感染
虐待する大人のこころの中には「傷ついた子ども」がいる。
頭(意識)ではいけないと分かっているが、無意識から突き上げる衝動が強く理性で抑えられない。
自分を傷つけた親に対して「怒り」を感じられるということは、「傷つき」を回復する最も重要なファクター。
「しつけ」という大人の押しつけ
「子どもは未熟だから、しつけや教育をしてあげなければならない」という従来の論法は正しいか?
子どもは、表面的に大人に服従しても、こころの中で信頼していないことが珍しくない。
「殺人は悪い」というような一方的な正論や理屈を押しつけることは逆効果でしかない。
なぜなら子どもたちは「善悪」はいやというほど理屈では分かっているが、強い衝動は意識的にはどうしようもないから。
いじめの背後にある大人の影
いじめで面接に訪れる子どもの背景には必ず「大人たちの犠牲」になった子どもの姿が見えてくる。
いじめっ子も、いじめられっこも、実は“大人たちの犠牲者”。
いじめっ子は、もともと性格が悪いからではない。
現代の子どもたちは、さまざまな形で大人から抑圧されている。
「子どもは何も分からない」という思い込みや、「教育」「しつけ」という言葉で正当化された「命令」により
「大人の言う通りにしなさい」という圧力を受けている。
大人たちから押しつけられた「良い子」という幻想や干渉に耐え切れなくなり、いじめる行為で「はけ口」を求めている。
いじめっ子も、実は大人から暴力的・心理的「いじめ」を受けている。
大人が子どもいじめる時も、子どもが子どもをいじめる時も構図は同じ。まさに「いじめの連鎖」。
まず、大人自身が子どもへの有形無形の「いじめ」を止めなければならない。
いじめられっ子の背景は大人の不安
親から常に不平不満を聞かされていたり、親が心理的に子どもに依存していると、子どもの内界は不安定になる。
大人の吐き出すネガティブな「毒素」を飲まされた子どもには、それを解毒する機能が働かないため、こころ全体が機能不全になる。
「いじめっ子」は、こころに不安のある子どもを敏感にキャッチし、生贄を捉える能力がある/驚
裏返すと、大人にこころを守られ、不安を抱えていない子どもをいじめることは難しい。
我が子を「いじめの対象」にさせたくないなら、大人が自分の不安を子どもに押し付けないこと。
不登校は無意識からの信号
こころの問題を回復させるために、無意識から「動くことにストップがかかった状態」。
何もないかのように無理して現実の世界で動いているほうが、回復から遠のいてしまう。
大人自身が「頭で考えることの限界」を自覚して、「自身のこころを通して、子どもの傷を体験すること」が前提となる。
「子どもの問題行動や症状」は、子どもたちが自分の身を犠牲にして、
未解決のまま放置されている大人の問題を表してくれているのだと捉える。本来子どもたちには何の罪もない。
心理療法家(サイコセラピスト)&精神科医(サイキアトリスト)の違い
精神科医:患者の症状に対して薬を処方する。
サイコセラピスト:来る人を患者ではなく「クライエント(相談者)」と呼び、クライエント自身がこころの問題を解決する作業を援助する。
時には本人に会わずに窓口との面接だけで治癒することもある。
家族(とくに母子)は“こころの深層”で繋がっていて、大人は子どもに強い影響を与えているから。
サイコセラピー
無意識という“こころの深層”からの働きかけを捉えようとする作業。
悲痛なメッセージを自分のこととして受け止め、苦しみを共有する。
セラピストが苦しみ・痛みを自覚し、回復に向けて内的なプロセスを展開できた時
クライエントのこころが治癒するプロセスが始まり、変化する。
サイコセラピーは、クライエントが回復するために、セラピストとともに苦しい過程を歩まなければならない。
「世間一般常識」という弊害
「薬を飲んでも治らない」「マニュアル本を実行したが悪化した」ということも多い。
一見正しい方法は、皮肉にも子どもを追い詰め、回復を遅らせることになる。
人の意識的なエネルギーは無限ではないので、下手に動き出すと、エネルギーが外的な方向(意識的)に流れ、
治癒のために使わなければならない内的な方向(無意識)に使われなくなる。
動物が怪我した時、暗い場所で治癒するまでじっとうずくまっているように、
人も引きこもってじっとしているほうが回復する可能性がある。むやみに外に出るよう誘わない。
現代は、可能性があるにも関わらず、能力を発揮できない子どもが多い。
大人たちの勝手な思い込みや、誤ったアドバイスによって、子どもの回復を阻害している。
「悪」の大人に対しては、子どもは怒りを向けやすいので、子どもが助かる見込みがあるが、
皮肉なことには、それが悪意でなく、「良かれ」と思って一生懸命にやるためにとどまるところを知らない。
精神が破綻するまで我慢する子どもたち
多くの子どもは精神が破綻するまで限界を超えて無理をして我慢してしまう。
その結果、無気力や集中困難などのうつ症状、さまざまな神経症状、精神疾患という形で表出する
これは、無理に意識的な努力で頑張って動いたため、状態を悪化させたため。
子どもは、内側に何も起きていないのに怠けるということはない。
不安神経症状のある子どもは、集団に入ると想像しただけで体が動かなくなったり、パニック発作になることもある。
こころと体は密接に繋がっている。
怒りは、ときに治療促進的に作用する。
子どもが大人の攻撃に対して怒りを行動化すると「大人を苦しめる加害者」扱いされてしまい、ますます傷つく。
意識に刷り込まれた“一般常識”に捉われないことが、本当の回復への第一歩。
だが、固定観念に縛られやすい大人には最も苦手なこと。
「治療空間」としての「昼夜逆転」
「昼夜逆転」は回復のための守り。大人はそれを罪悪視し、なんとか健康的な生活リズムに戻そうと躍起になる。
朝は慌しさの中で動けない自分を強く自覚させられ、ますます不安に襲われる。→眠っていれば不安から守られる。
こころを根底から回復させるため、無意識が朝は眠らせようとしている。
治癒を促進し、精神を守るために無意識が機能している。
「基本的生活習慣」はこころが回復してから。それまでは、できるだけ外部をシャットアウトしたほうが安全。
テレビゲームや漫画はファンタジーの世界
ファンタジーの世界に入ることは「治療空間」に守られることでもあるのだと理解する。
「治療空間」にこもる子どもを、親がどう「見守る」かが重要なファクターとなる。
子どもを放置することではない。親がどれだけ自分の痛みとして感じ、共有できるかが「見守る」ということ。
回復のプロセスは神話と共通している
神話は人の無意識を映し出しているといわれている。
【神話】
日本の国土が荒れて途方に暮れたオオナムチ(大国主)。常世の神(医療神)スクナビコナが助けて国を救った。
ふたたびオオナムチが己の限界を自覚して困っていると、こんどはオオモノヌシ(常世の神)が現れて、国土を平定した。
祟神天皇の時代に疫病が蔓延し、夢にオオモノヌシが現れ、「常世の神を祀れ」と言われ、そうした結果、疫病は治まった。
現代においては、危機的状況は「こころの問題」として表れている。
元型
無意識に由来する「元型」の力を忘れ、意識的努力だけに頼ろうとしたことで「祟り」が起こったというのが神話の意味。
戦後の日本はあまりのスピードで“目に見えるもの=物や金”の発展を急ぎすぎたために、
意識が外側ばかりに向いて、内側の無意識は置き去りにされてきた。
神性な場所
傷を自覚し、分断された意識と無意識の通路が繋がって“回路”が開く。
次は痛みと並行して、傷つけた相手に怒りがおきる。痛みと怒りの強さは比例する。
夢体験、イメージ体験の中で傷つけた対象を切断、殺害することができる。
このようなこころの作業なしに放置すると、日常で突然「アクティングアウト(行動化)」をして悲劇的な事件が起こる。
児童文学『小公女』の世界
読書やゲームは、ファンタジーの世界で疲れたこころを回復させる機能があり、現実社会に適応するためのある種の防衛。
その本質を知らずに、大人が頭ごなしに否定すべきではない
『小公女』で子どもに学ばせるべき点
1.他人の人格を尊重する
2.他人を理解し、信頼し、寛容の態度を持つ
3.平等と公平な態度で他人に接する
4.他人に対して尊敬と感謝の念を持つ
しかし、こうした能力は教育やしつけから得るものでなく、子ども本来のこころにすでに備わっている。
「ごっこ遊び」は心理学的にいう「投影」
子どもは空想の世界で生き生きと生きることができ、こころのエネルギーを蓄え、新たな創造をし、
傷ついたこころを回復させていく。
子どもの遊びに嫉妬し、批判する大人たち
現実の世界を生きることで精一杯な大人は、勉強(労働)をせずに遊んでいる子どもを、“怠けている存在”とみなしてしまう。
大人のこころの深層にいる“傷ついた子ども”が「嫉妬」し「攻撃」する心理が隠れている。
『小公女』のセーラが持っていた「財産」はお金や物ではなく、「ごっこ遊び」で培われた「空想できる能力」と、
父から惜しみなく与えられた愛情。これは意地悪なミンチン先生にも決して奪うことはできなかった。
自分も空腹なのにホームレスの少女にパンを分け与える思いやりも失わなかった。
それは、セーラの中に、他人に分け与えても余りある“こころの財産”があったから。
真の幸福とは何か
セーラの「屋根裏部屋」は「治療空間」としての機能を果たしている。
あまりに日常が過酷な場合、日常に引きずられ、なかなか「非日常空間」であるファンタジーの世界で遊べなくなる。
その場合、日常世界(現実)が非日常空間に侵入してこないよう区切る必要がある。
「心理面接室」もある種の「非日常空間」。こころの傷と向き合い、自覚し、回復していく。
人は、現実で行き詰まり、意識ではどうにもならない限界に置かれた時、「非日常空間」に引きこもり、
ファンタジーの世界で遊ぶことができれば、無意識の力が動きだし、「偶然」という形で「幸福へ通じる扉」開かれる。
「幸福へ通じる扉」を開く無意識の力は誰もが持っているもの。
内側(こころ)の目
自身の「内側(こころ)の目」を持つこと。「外側(現実)の眼」では、誰にも奪えない“真の幸福”への扉は見つからない。
他者のこころは、自分のこころを通してしか理解することはできない。
昔話『舌切り雀』
昔話は、人の無意識を映し出す。
人は“こころの傷”を放置したまま年老いると、不平不満が多くなり、世の中を恨むようになる。
そして、子どもに「私のことを心配して。大切にして」と主張する。
これは“得をしたい、注目されたい”という欲望の表れ。
『舌切り雀』の欲張りお婆さんが大きなツヅラを選んだのは、「外側(意識)」の世界で得をしたいという欲望の表れ。
「外側(意識)」の欲求が満たされないと、「あなたも歳をとったら、私のようになるわよ」と“呪い”をかける人がいる。
大きなツヅラの中に化け物が詰まっていたように、「内側(無意識)」の世界が荒んでいることの表れ。
そんな大人から呪いをかけられた子どもは、歳を重ねるのが怖くなり、意識と無意識を切り離してしまう。
不満だらけの年老いた親を“守る”ようになる。
本来親が子ども守らなければならないのに、子どもが親を守るという“逆転現象”が起こる。
世間の“親を大切にする子ども”の美談も拍車をかけている。
子どもたちは、自らが「こころの病」に苦しむ姿を通して、大人たちに“こころの傷”の存在に気づかせ、
自覚し、回復させなければならないことを教えてくれている。
子どもへの「嫉妬羨望」を持つ大人
大人から「心理的な我慢」をさせられて育った子どもは、成長すると、わがままな大人になる。
世間では「子どもを甘やかすとロクな大人にならない」「子どもに我慢をさせると立派な大人になる」という極端に偏った論調がある。
その根底には、子どもに対する大人の「嫉妬羨望」の心理が隠れている。
ある程度子どもとしての権利の範囲でわがまま(自由)ができた子どもは、
大人になった時、自己中心的なわがままをするという悪質な欲求を満たす必要がない。
我慢にはさまざまある
1.物質などに対する欲求への我慢
2.物心がついた時から、母親の不平不満ばかりを聞かされ、拒絶できずにいた「我慢」
2の子どもは、外側のちょっとした刺激に対しても強い不安反応が起きる。
“世の中は悪意に満ちている”という妄想に支配され、「摂食障害」として表れる場合もある。
「拒食症」も「過食症」も口に入れる食べ物(母の愚痴)を排除する行為と捉えられる。
母親の苦労を見て育つ子どもは幸せか?
「孝行話」も「我慢」の一例で美談とされている。孝行話を極端に言い換えると
「子どもを不幸せにした母親は大切にされるべきで、
子どもを幸せにした母親は大切にされるべきではない」となる。
「苦労を見せる=子どもに大切にされる」というおかしな構造が、子どもに心理的被害に遭わせている。
母親の心理的荷物を持たされた子どもは、不安定になり、人間関係が依存的になるなど、さまざまな症状がおきやすい。
貧困、戦中であれば、子どもにも問題は起きない。現実が混乱に満ちた危機的状態だから
現代は、自分のこころの荷物だけで十分であり、母親の苦労を背負う必要はない。
子どもを幸せにした親は、将来自分が子どもに大切にされることを望んでいるわけではない。
子どもに苦労を見せてしまうのは、困難な状況に対する自身の捉え方に問題があるから。
「苦労」と捉えるか、そうでないかで、子どもに与える影響が大きく変わる。
母「お母さんは、あなたのためにこんなに頑張っているのよ」
子「わたしのために、苦労をかけてごめんなさい」という罪悪感を持つ。
母「思い切り仕事をさせてもらって有難い」
母親本人も苦労しているとは思っていない。
専業主婦でも同様。
母「家事が忙しい、大変だ」
子「わたしのために、苦労をかけてごめんなさい」という罪悪感を持つ。
母親のこころの中の子どもが自由に生きていれば、目の前の子どもの気持ちを自然にキャッチすることができる。
なぜ虐待をするのか
母親から暴力、無視、放置などに遭うたび、子どもは怒りを感じるどころか、
逆に「自分がいけない子だからお母さんが怒るんだ」と自分を責めるようになる。
虐待はまさに大人のわがままで身勝手な行為。
母親のこころの治療をしない限り、どんなに子どもを一時保護しても虐待の悲劇はなくならない。
赤ちゃんはみな世界の中心で、特別な存在
「甘やかす」ことも悪いと思われているが、それは大人の視点。
子どもが甘えるのは、自然で当たり前。
すべての子どもは特別な存在として、世界の中心として生まれてくる。
もし、大人が子どもに甘えているなら、そのほうが不自然で異常。だがその現象は珍しくない。
甘えを許されず、逆に大人の甘えを受け止めなければならない子どものこころは、他者の顔色をうかがうようになり、自立が難しい。
内なる赤ちゃん
大人の中の“内なる赤ちゃん”は存在し続け、こころの中心にいる母親に依存しなければ生きていけなくなる。
こころの中心に自分がいないために、現実世界で、自分が中心にいなければ不安に襲われ、
周囲に向けて「わたしを見て!」とアピールするようになる。
乳児期の母子一体化
3~4ヶ月の赤ちゃんはまだ自我が確立されておらず、自分と他者が分離されていない。
母親を部分対象として捉えているといわれている。=乳児期の母子一体化
十分に甘えた赤ちゃんのほうが、不安も少なく、困難を乗り越えられるような精神力が強い大人になる。
メディアは「働くお母さんのために保育園を増やせ」と叫ぶが、当事者の赤ちゃんの視点がないのはおかしい。
老いとイラ立ち
赤ちゃんを傷つける母親は、“老い”という形でイライラが多くなり、世の中を恨む症状が出る。
これは老いとともに表れるのが当たり前と思われているがそうではない。
加齢とともに、意識のエネルギーは減少するが、無意識からエネルギーを上げることができれば、
何歳になっても生き生きと生きていくことができる。
こころは老いることはない。内的に機能している人は、歳を重ねるほど、さまざまなことを吸収し、感性も理解力も伸びる。
赤ちゃんとのコミット
赤ちゃんとのコミットは、母親の内なる赤ちゃんも活性化される。
0歳~3歳まではとくに、国家予算よりも価値のある時間(財産)である。
かつて日本ほど子どもを大切にした国はなかった
「今の子どもは甘やかされている。昔は厳しくしつけられた。親孝行もした」
この「昔」とはいつをさすのか?戦前・戦中・戦後の異常事態
男は全員兵隊にとられ、女子どもだけで国を支えなければならないから、
「我慢しなさい。お母さんを助けるように」と刷り込むことが必要だった。
明治初期。訪日した動物学者エドワード・シルベスター・モースは、
「日本ほど子どもを大事にする国を私は初めて見た」と記した。(『日本その日その日』平凡社東洋文庫)
「日本人が子どもを叱ったり、罰したりしないというのは、少なくとも16世紀以来のことだったらしい」(『逝きし世の面影』平凡社)
それ以前は鎖国をしていたため、それよりはるか昔から、日本は子どもを大切にする文化を継承していた。
江戸時代初期。訪日した貿易商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、
「日本人は刀で首をはねるのは何とも思わないのに、子どもを罰することは残酷だと言う」
「日本の子どもは非常に美しくて、6、7歳で道理をわきまえた優れた理解をもっている。
しかし、その良い子どもでも、父母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子どもを罰したり、教育したりしないからである」(『大航海叢書』『日本王国記』岩波書店)
戦国時代。織田信長に謁見したことがあるイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、
「われわれは普通、鞭でうって息子を懲罰する。日本では滅多に行われない。ただ言葉によって譴責するだけである」
「ヨーロッパの子どもは青年になっても口上ひとつ伝えられないが、日本の子どもは10歳でも、それを伝える判断と思慮において50歳にも見られる」(『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波書店)
子どもを甘やかせるなという風潮の背景
戦争前後の混乱と貧困の社会では、子どもに自由を与えるわけにはいかなかった。
現在、平和で豊かな先進国に180度変わったにもかかわらず、当時の親子関係がズルズルと継承されている。
戦争前後を生きた人たちは、自分が幼少期に負った不自由さを次の世代に投影し、「子どもを苦しめよう」とする心理が働いている。
世界が変わり、親は子どもを守らなくなったのに、子どもは親を助け、支えるという片側の面だけは当然のように引き継がれている。
その上「今の子どもは昔に比べて贅沢をしている」という嫉妬からくる「攻撃」まで加わっている。
「この心理感染をどの世代で断ち切るのか」が問題。今、解決しなければ、次世代に回すことになる。
頭は教育できても、「こころの教育」はできない
心理学的には、“こころ”は、意識(頭)+無意識も含む。
意識は教育によって変えられるが、無意識は教育できるものではない。
「無意識」は「意識」を動かせても、「意識」によって動かされることはないから。
現実とバーチャルが混在して殺人鬼になるか?
かつて仁侠映画が流行っていた時代、高倉健の「死んでもらいます」というセリフが人気を集めた
それを観た観客が実際に人殺しをしたという事件はない。
人のこころはそれほどカンタンに操作されるようなメカニズムにはなっていない。
「悪」体験の必要性
現代の子どもは、ちょっとした悪戯もできないため、テレビゲームの世界で「悪」体験をするしかない。
かつてないほど、どこからでも見通しよく大人たちから監視される社会になっているから。
「悪」体験は、「善」体験と同じくらい必要。(昔なら秘密基地、近所の柿を盗むなど
秋葉原無差別殺人事件の犯人の予備軍のような患者は
「嫌というほど、正しいことばかり教育されてきたが、人殺しの衝動は下のほうから勝手に沸きあがってくる」という。
共通点は、幼少の頃から正しいことばかりを強要されてきたということ。
暴力的な漫画やゲームを取り上げられ、テレビを絶対的に禁止されて観たこともないという人もいた。
教育では衝動を抑えることは不可能。こころは教育するものではなく、支え守るもの。
その子のこころがいかに傷ついているかを理解するところから始めなければならない。
【あとがきメモ】
本書は10年前に書いた原稿と、雑誌『灯台』に連載した記事を基に加筆修正した。この10年間で状況はほとんど変わっていない。
筆者の指導者は、ユング派分析家・織田尚生(たかお)さん(故人)。
織田さんの教えは「だれにも可能性があるのではないでしょうか」。これが筆者を支え続けてきている。