図書館で借りたCDシリーズ。
これで、ジョンとヨーコ関連はほぼ聴いたことになるかも。
ただ、プライマル・スクリームアルバムである『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』だけ当区にないのが残念
CDは他館貸し出しは出来ないとのこと。ひさびさ隣区へ借りにいくしかないか。
▼Magical Mystery Tour/The Beatles
ヤヴァイな、すっかり忘れてた。この曲だってビートルズだ。
耳に馴染みすぎたメロディで、作曲者、演奏者らのことは忘れてしまう。
マネジャーのエプスタインが事故死し、メンバは代わりを立てずに、
監督、出演、演出、音楽、すべて自主制作の映画製作に取りかかった。結果は酷評。
サントラは、イギリスでは初の2枚組EPとして発売して高評価を受けた。
▼Menlove Ave/John Lennon
これは聴いたかも? テープに録ってないのもあったのか? 上書きしたか?
メンローヴ・アヴェニューはジョンが預けられたミミ叔母・ジョージ叔父が住んでいたところ。
ことあるごとに帰宅していたが、バンドが売れてからは観光ルートになりファンが押しかけたことで
ミミはやむなくジョンから贈られたボーンマス近くのバンガローに移った
「ロックンロール」と「Walls and Bridges」のセッションで構成され、ヨーコとの別居生活中のアルバム。
▼Rising/Yoko Ono
【ヨーコ自身の言葉の抜粋メモ】
劇作家のロン・デストロから1994年、芝居『ヒロシマ』のために何曲か書いてくれと頼まれた。
♪Kurushi を歌う時、母の顔が浮かんだ。
戦時中、私はほかの子たちから“アメリカのスパイ野郎”と呼ばれたこと、
東京大空襲の最中、防空壕の中で母と身をひそめていたこと、
疎開先で弟や妹のために米を探し、地元の子から石を投げられたことも。
当時の私が乗り越えてきた状況と、今のわたしが直面している状況は、とてつもなく似ている。都会はまさに戦場。
私の周りにいる多くの友人たちが現在、じわじわと迫りくる死の苦しみに直面している。エイズのために。
私は生きている。彼らの悪夢の中で生き、あえて自分の悩みは口にすることが出来ないでいる。
このアルバムを制作したことで、私は自分の中にある怒り、苦しみ、そして恐怖を浄化することができた。
あなたにとっても、そうであってほしいと願う。Y.O.'95
【宮原安春さんのライナー抜粋メモ】
ヨーコは、長い間、誤解、中傷、偏見に包まれていた。
そこにはジョン・レノンというスーパー・スターと結婚した女性に対する嫉妬もあったかもしれない。
「芸術家は、時代に先駆けるものだから、生きているうちに評価されないのは当たり前と思っていました。
それが評価されだしているんですから、自分でも驚いちゃいますよ」とヨーコは笑う。
評価の変化のきっかけは、作品の集大成『ONO BOX』をワシントンポスト紙が称賛し、
ヨーコが作曲したミュージカル『ニューヨーク・ロック』が絶賛されたこと、
グッゲンハイム美術館で「戦後日本美術展」が開かれ、ヨーコの詩の一節が引用されたこと。
ヨーコは当時「フラクサス」という実験的芸術集団で活動していた。
1994年、ドイツの市が町のコンセプト・アートを依頼し「ア・セレブレーション・オブ・ビーイング・ヒューマン」を展開。
尻尾のない哺乳動物である人類は美しくて、面白い。人類であることを謳歌せよというのがコピー。
ポールと和解した曲♪Hiroshima Sky Is Always Blue は収録されなかったが、被爆50年の8月6日、NHKのニュースで流された。
メンバとの関係修復を機に♪Free as a bird 、♪Real Love の2曲がレコード化される運びとなる。
ショーン・レノンはバンド「IMA」を結成し、本アルバムでバックを務め、デビューを飾った。ジャケのタイトル文字も彼の手による。
▼Blueprint for a Sunrise/Yoko Ono
すごいな。西太后のいでたちで座るヨーコのジャケの存在感たるや。
ジョンとの共作は大体聴いたと思っていたけど、ジョン亡き後の彼女のアルバムは聴いたことがなかったから新鮮。
でも、ヨーコの作品は聴いていると苦しくなってくる。負のパワーからの真っ直ぐで強いメッセージ。
【ヨーコ自身の言葉の抜粋メモ】
第二次世界大戦時、ドイツ軍に包囲されたサンクトペテルブルグ。
あるラジオDJは音楽を通して人々を励ましたが、ついに力尽きた時、メトロノームの音を生放送で流して、人々を救ったという。
ベルリンでの「HERSTORY」という個展で、「フェミニズムは過去の問題でしょう?」と若い女性インタビュアーが言った。
しかし今でも、知性も力も持ち合わせているにも関わらず、社会的立場のために不安に過ごしている女性たちを私は知っています。
多かれ少なかれ私たち女性は皆、いつも女性にしか分からない内なる警戒心を持ちながら、明るく強いフリをして、不安の中で生きているのです。
ときどき、私は何千もの女性が叫んでいるのが聞こえ、夜中に起きてしまいます。
ドラゴン・レディとは、当時イギリスの植民地支配を奨励するために、イギリスのマスコミが彼女に付けた名前です。
彼女は汚名を着せられ、失意のもとに死んでいきました。
私は、毎日自分に言い聞かせています。
私は生き抜くのだ、と。
芸術は、生き抜くためのひとつの方法です。
私のメトロノームであるこのアルバムをみなさんに提示します。
▼Season of Glass/Yoko Ono
このジャケ写だけは、いつ見ても直視出来ない。
それをこうしてさらけ出せるヨーコの勇気、強いメッセージ性に衝撃を受ける。
サックスは、マイケル・ブレッカーも参加しているとのこと。
【藤本国彦さんによるライナーの抜粋メモ '97】
本アルバムは、ジョンが非業の死を遂げてから半年後の81年に発売されたヨーコにとってのソロ5作目。
「大勢の人から、ジャケットにあんな写真を使うなんてとんでもない、と忠告されました。
ですが、私は世界中の人に、あの血のついた眼鏡を見てもらい、ジョンが殺されたのだということを実感してほしかったのです。
老衰とか麻薬などで死んだのではないということを」(『オノ・ヨーコ』ジェリー・ホプキンズ著)
「確かにリアルですが、私はもっとリアルな血の海に染まったジョンを見ました。私はそのほんの少しを見せただけです。
彼がいつもそれを通して世界を見ていた窓を、人々とわかち合いたかった。
これだけの現実でもあまりというなら、私はもっとひどいことも見ました」(『ただの私(あたし)』講談社)
♪I don't know why のデモテイクが録音されたのは1980年12月9日。ジョンの死の翌日。
「最初に歌おうとした時、私は喉が詰まって、声が潰れていることに気がついた。
アルバム制作を諦めようかと真剣に考えたほどでした。
その時、私は、様々な理由で喉を詰まらせ、声を潰している世界中の人々のことを思い浮かべました。
私はその人たちのために歌うことができる」
「レコーディング・セッションの間にステキなことがたくさん起こりました。
そして何よりも、ジョンがいつも側にいて、私のためにあれこれと手はずを整えてくれたのです。
だからこそ、このアルバムはあえて彼に捧げていないのです。そんなことをしたら、彼が気を悪くしてしまうもの。
彼はずっと私たちと一緒だったのだから。愛をこめて ヨーコ1981.5.6」
これで、ジョンとヨーコ関連はほぼ聴いたことになるかも。
ただ、プライマル・スクリームアルバムである『John Lennon/Plastic Ono Band(ジョンの魂)』だけ当区にないのが残念
CDは他館貸し出しは出来ないとのこと。ひさびさ隣区へ借りにいくしかないか。
▼Magical Mystery Tour/The Beatles
ヤヴァイな、すっかり忘れてた。この曲だってビートルズだ。
耳に馴染みすぎたメロディで、作曲者、演奏者らのことは忘れてしまう。
マネジャーのエプスタインが事故死し、メンバは代わりを立てずに、
監督、出演、演出、音楽、すべて自主制作の映画製作に取りかかった。結果は酷評。
サントラは、イギリスでは初の2枚組EPとして発売して高評価を受けた。
▼Menlove Ave/John Lennon
これは聴いたかも? テープに録ってないのもあったのか? 上書きしたか?
メンローヴ・アヴェニューはジョンが預けられたミミ叔母・ジョージ叔父が住んでいたところ。
ことあるごとに帰宅していたが、バンドが売れてからは観光ルートになりファンが押しかけたことで
ミミはやむなくジョンから贈られたボーンマス近くのバンガローに移った
「ロックンロール」と「Walls and Bridges」のセッションで構成され、ヨーコとの別居生活中のアルバム。
▼Rising/Yoko Ono
【ヨーコ自身の言葉の抜粋メモ】
劇作家のロン・デストロから1994年、芝居『ヒロシマ』のために何曲か書いてくれと頼まれた。
♪Kurushi を歌う時、母の顔が浮かんだ。
戦時中、私はほかの子たちから“アメリカのスパイ野郎”と呼ばれたこと、
東京大空襲の最中、防空壕の中で母と身をひそめていたこと、
疎開先で弟や妹のために米を探し、地元の子から石を投げられたことも。
当時の私が乗り越えてきた状況と、今のわたしが直面している状況は、とてつもなく似ている。都会はまさに戦場。
私の周りにいる多くの友人たちが現在、じわじわと迫りくる死の苦しみに直面している。エイズのために。
私は生きている。彼らの悪夢の中で生き、あえて自分の悩みは口にすることが出来ないでいる。
このアルバムを制作したことで、私は自分の中にある怒り、苦しみ、そして恐怖を浄化することができた。
あなたにとっても、そうであってほしいと願う。Y.O.'95
【宮原安春さんのライナー抜粋メモ】
ヨーコは、長い間、誤解、中傷、偏見に包まれていた。
そこにはジョン・レノンというスーパー・スターと結婚した女性に対する嫉妬もあったかもしれない。
「芸術家は、時代に先駆けるものだから、生きているうちに評価されないのは当たり前と思っていました。
それが評価されだしているんですから、自分でも驚いちゃいますよ」とヨーコは笑う。
評価の変化のきっかけは、作品の集大成『ONO BOX』をワシントンポスト紙が称賛し、
ヨーコが作曲したミュージカル『ニューヨーク・ロック』が絶賛されたこと、
グッゲンハイム美術館で「戦後日本美術展」が開かれ、ヨーコの詩の一節が引用されたこと。
ヨーコは当時「フラクサス」という実験的芸術集団で活動していた。
1994年、ドイツの市が町のコンセプト・アートを依頼し「ア・セレブレーション・オブ・ビーイング・ヒューマン」を展開。
尻尾のない哺乳動物である人類は美しくて、面白い。人類であることを謳歌せよというのがコピー。
ポールと和解した曲♪Hiroshima Sky Is Always Blue は収録されなかったが、被爆50年の8月6日、NHKのニュースで流された。
メンバとの関係修復を機に♪Free as a bird 、♪Real Love の2曲がレコード化される運びとなる。
ショーン・レノンはバンド「IMA」を結成し、本アルバムでバックを務め、デビューを飾った。ジャケのタイトル文字も彼の手による。
▼Blueprint for a Sunrise/Yoko Ono
すごいな。西太后のいでたちで座るヨーコのジャケの存在感たるや。
ジョンとの共作は大体聴いたと思っていたけど、ジョン亡き後の彼女のアルバムは聴いたことがなかったから新鮮。
でも、ヨーコの作品は聴いていると苦しくなってくる。負のパワーからの真っ直ぐで強いメッセージ。
【ヨーコ自身の言葉の抜粋メモ】
第二次世界大戦時、ドイツ軍に包囲されたサンクトペテルブルグ。
あるラジオDJは音楽を通して人々を励ましたが、ついに力尽きた時、メトロノームの音を生放送で流して、人々を救ったという。
ベルリンでの「HERSTORY」という個展で、「フェミニズムは過去の問題でしょう?」と若い女性インタビュアーが言った。
しかし今でも、知性も力も持ち合わせているにも関わらず、社会的立場のために不安に過ごしている女性たちを私は知っています。
多かれ少なかれ私たち女性は皆、いつも女性にしか分からない内なる警戒心を持ちながら、明るく強いフリをして、不安の中で生きているのです。
ときどき、私は何千もの女性が叫んでいるのが聞こえ、夜中に起きてしまいます。
ドラゴン・レディとは、当時イギリスの植民地支配を奨励するために、イギリスのマスコミが彼女に付けた名前です。
彼女は汚名を着せられ、失意のもとに死んでいきました。
私は、毎日自分に言い聞かせています。
私は生き抜くのだ、と。
芸術は、生き抜くためのひとつの方法です。
私のメトロノームであるこのアルバムをみなさんに提示します。
▼Season of Glass/Yoko Ono
このジャケ写だけは、いつ見ても直視出来ない。
それをこうしてさらけ出せるヨーコの勇気、強いメッセージ性に衝撃を受ける。
サックスは、マイケル・ブレッカーも参加しているとのこと。
【藤本国彦さんによるライナーの抜粋メモ '97】
本アルバムは、ジョンが非業の死を遂げてから半年後の81年に発売されたヨーコにとってのソロ5作目。
「大勢の人から、ジャケットにあんな写真を使うなんてとんでもない、と忠告されました。
ですが、私は世界中の人に、あの血のついた眼鏡を見てもらい、ジョンが殺されたのだということを実感してほしかったのです。
老衰とか麻薬などで死んだのではないということを」(『オノ・ヨーコ』ジェリー・ホプキンズ著)
「確かにリアルですが、私はもっとリアルな血の海に染まったジョンを見ました。私はそのほんの少しを見せただけです。
彼がいつもそれを通して世界を見ていた窓を、人々とわかち合いたかった。
これだけの現実でもあまりというなら、私はもっとひどいことも見ました」(『ただの私(あたし)』講談社)
♪I don't know why のデモテイクが録音されたのは1980年12月9日。ジョンの死の翌日。
「最初に歌おうとした時、私は喉が詰まって、声が潰れていることに気がついた。
アルバム制作を諦めようかと真剣に考えたほどでした。
その時、私は、様々な理由で喉を詰まらせ、声を潰している世界中の人々のことを思い浮かべました。
私はその人たちのために歌うことができる」
「レコーディング・セッションの間にステキなことがたくさん起こりました。
そして何よりも、ジョンがいつも側にいて、私のためにあれこれと手はずを整えてくれたのです。
だからこそ、このアルバムはあえて彼に捧げていないのです。そんなことをしたら、彼が気を悪くしてしまうもの。
彼はずっと私たちと一緒だったのだから。愛をこめて ヨーコ1981.5.6」