■『レイチェル 自然と共に 絵で読む教科書に出てくる世界の科学者たち』(汐文社)
杉山薫里/文・絵
【内容抜粋メモ】
レイチェルは、1907年アメリカ・スプリングデールに生まれた(同じ双子座だ/嬉
10歳で「セント・ニコラス」誌に投稿した物語は銀賞、金賞を受賞し、プロの作家になる自信となった。
大学2年、スキンカー教授に出会い、顕微鏡の世界に触れて、生物学を勉強したいと思う。
生物科学でとても進んでいたジョンズ・ホプキンス大学で海洋動物学を学ぶ。
世界恐慌が起こり、学費を稼ぐために講師や助手として働いた。
失業者は1500万人にもなり、女性が資格をいかせる仕事はもっと少なくなった。
1933年、ルーズベルト大統領就任。ニューディール政策で女性の職業の幅が広がる。
海洋動物学の修士号をとって大学院を卒業。
1935年、父ロバートが急死。
漁業局のラジオ番組の台本作りを任され好評を得る。
のちにテレビの台本も書いた。内容は雲。
すでに地球の温暖化に気づき、心配していたレイチェルは気候に興味をもっていた。
番組は「空についての話」というタイトルで1957年に放映された。
姉が亡くなり、母と姉の娘2人を育てながら仕事をした。
公務員試験に合格、漁業局に水生生物学者として採用される。
生物学者エルマー・ヒギンズの勧めで「海のなか」が雑誌に掲載された。
海に生きる生物の立場から、生物と環境の関係を説明した内容で好評を得る。
「自然保護の実際」というブックレットを作り、自然文学の手本と考えられている。
第一次世界大戦ではレイチェルは10歳。
第二次世界大戦の数週間前に「潮風の下で」が出版され、一番お気に入りだったが売れ行きがのびずショックを受ける
海中の調査が本格化したのは20世紀に入ってから。
1948年、全国オーデュボン協会(アメリカを代表する自然保護団体)の会長に選出された。
海と環境が似ている山で鳥も熱心に観察し、コウモリが超音波を使って暗闇を見ていることを記事に書くと、
それがもとになってレーダーが発明され、海軍の新兵募集の活動にも使われた(皮肉だね・・・
1949年、珊瑚礁の海に潜水して調査した。
この頃は「女性が船に乗ると不幸が起こる」なんて迷信が信じられていて、周りの説得が大変だった
1951年「われらをめぐる海」はベストセラーとなり、その他の本も売れ始める。
サウスポート島に別荘を建てて暮らした
翌年、アイゼンハワー大統領に就任。自然保護政策は中止され、経済中心となった。
1952年、公務員を辞め、1955年「海辺」を出版しベストセラーになる。
姪が亡くなり、その息子ロジャーを養子に迎える。尊敬してやまない母が亡くなる。
1962年、ついに「沈黙の春」が出版され、大論争を巻き起こし、これ以後、環境保護運動が大きく発展する。
「すでに何をしたかよりも、何をしようとしているかにいつも関心を持っている」
「環境保護運動は、永遠に続く運動」
1964年、晩年のレイチェルは病に苦しみ56歳で亡くなった。
友人らにより『センス・オブ・ワンダー』が出版される(読んだ!驚
「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、人生に疲れたり、ひとりぼっちで寂しくなることはなく、
苦しみや心配ごとを乗り越えることができると信じている」
メイン州に国立野生生物保護区が作られ、後にレイチェルの名前が付けられた。
1970年、エコについて考え、広める国際アースデイ第1回が開催された。
1971年、ついにアメリカでDDT使用が禁止される。
レイチェルは、ひとつの生き物だけにこだわらず、食物連鎖、生態系など、生き物同士のつながりを研究した。
「海の中では何も失われない」
「生き物と環境のつながりは、きわめて繊細に織りなされているため、糸がほんの1本もつれてしまえばすべてが台無しになってしまう」
「ひとりで生きるものは何もない」という考え方から生態学(エコロジー)という研究を進めた。
バランスのとれた生態系では、食べられるものの数は、食べるものの数より、いつも10倍ほど多いはずで、
異常に増えたり減ったりすると、地球全体の生態系のバランスが崩れてしまう。
DDT
スイスの農民が作物の害虫駆除に使い始め、第二次世界大戦中のアメリカではチフスやマラリアの病気を防いだ。
薬品を使う化学兵器の開発が進められ、昆虫が実験台に使われたため、いろんな殺虫剤も開発された/驚
(殺虫剤ですら、軍事関係の研究の副産物だったのか・・・
結局、DDTは害虫を駆除することもままならず、代わりに鳥や小動物を殺し、すさまじい環境破壊を引き起こした。
飛行機で撒いた量で給料が支払われたため、必要以上に同じ場所に撒くパイロットもいた。
DDTは、土に分解されず、雨にも流されない、溶けない物質
生き物によって吸収されるたびに、だんだん濃くなってゆく
1.DDTを含んだ水を飲んだプランクトンからは5ppm
2.プランクトンを食べる草食類の魚からは300ppm
3.草食類の魚を食べる肉食の魚からは2500ppm
4.その魚や肉を食べる人間は・・・???
殺虫剤は水に溶けず、土の中に1、2ヶ月たっても消えない
1.殺虫剤を撒く
2.虫が死ぬ
3.その虫を鳥が食べる
4.鳥が死ぬ
5.害虫以外の虫、害虫を食べる虫も死ぬ
1950年代、アメリカ西部の高原を牧草地に変えようとして、セージブッシュをなくすために除草剤が撒かれた。
セージブッシュをはじめとして、それをエサとしたり、住みかとする動物が姿を消した。
食物連鎖の頂点に立つのは人間であり、ヒトも地球上の命の連鎖からは逃げられないことを伝えた。
生態系を利用した、より自然に近い形で有害な昆虫を取り除くことを提案。
レイチェルより前に環境問題に関わった人物
・ジョン・ジェームズ・オーデュボン
・ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
・ヨン・ミュア:ヨセミテの自然を愛し、1892年に自然保護団体「シエラ・クラブ」を設立。
オーデュボン協会と並ぶアメリカの代表的な自然保護団体。
ジョン・F・ケネディ大統領は『沈黙の春』に注目し、政府に調査させた結果、
レイチェルの考えが正しいと認められ、1964年までに40以上の農薬を規制する法律が考え直された。
日本の環境問題
江戸時代に城下町を作るため山林が開発され、お金を作るため金、銀、銅が必要になり鉱山の開発が進んだ。
海岸の埋め立て、川の洪水を防ぐための土木工事もさかんに行われた。18世紀前半にはもう市中にホタルはいなくなった。
明治時代には工業化が進み、さらに自然破壊が増える。戦後、環境問題の法律が決められた。
1967年 公害対策基本法制定
1971年 環境庁設置
1972年 自然環境保全法制定
杉山薫里/文・絵
【内容抜粋メモ】
レイチェルは、1907年アメリカ・スプリングデールに生まれた(同じ双子座だ/嬉
10歳で「セント・ニコラス」誌に投稿した物語は銀賞、金賞を受賞し、プロの作家になる自信となった。
大学2年、スキンカー教授に出会い、顕微鏡の世界に触れて、生物学を勉強したいと思う。
生物科学でとても進んでいたジョンズ・ホプキンス大学で海洋動物学を学ぶ。
世界恐慌が起こり、学費を稼ぐために講師や助手として働いた。
失業者は1500万人にもなり、女性が資格をいかせる仕事はもっと少なくなった。
1933年、ルーズベルト大統領就任。ニューディール政策で女性の職業の幅が広がる。
海洋動物学の修士号をとって大学院を卒業。
1935年、父ロバートが急死。
漁業局のラジオ番組の台本作りを任され好評を得る。
のちにテレビの台本も書いた。内容は雲。
すでに地球の温暖化に気づき、心配していたレイチェルは気候に興味をもっていた。
番組は「空についての話」というタイトルで1957年に放映された。
姉が亡くなり、母と姉の娘2人を育てながら仕事をした。
公務員試験に合格、漁業局に水生生物学者として採用される。
生物学者エルマー・ヒギンズの勧めで「海のなか」が雑誌に掲載された。
海に生きる生物の立場から、生物と環境の関係を説明した内容で好評を得る。
「自然保護の実際」というブックレットを作り、自然文学の手本と考えられている。
第一次世界大戦ではレイチェルは10歳。
第二次世界大戦の数週間前に「潮風の下で」が出版され、一番お気に入りだったが売れ行きがのびずショックを受ける
海中の調査が本格化したのは20世紀に入ってから。
1948年、全国オーデュボン協会(アメリカを代表する自然保護団体)の会長に選出された。
海と環境が似ている山で鳥も熱心に観察し、コウモリが超音波を使って暗闇を見ていることを記事に書くと、
それがもとになってレーダーが発明され、海軍の新兵募集の活動にも使われた(皮肉だね・・・
1949年、珊瑚礁の海に潜水して調査した。
この頃は「女性が船に乗ると不幸が起こる」なんて迷信が信じられていて、周りの説得が大変だった
1951年「われらをめぐる海」はベストセラーとなり、その他の本も売れ始める。
サウスポート島に別荘を建てて暮らした
翌年、アイゼンハワー大統領に就任。自然保護政策は中止され、経済中心となった。
1952年、公務員を辞め、1955年「海辺」を出版しベストセラーになる。
姪が亡くなり、その息子ロジャーを養子に迎える。尊敬してやまない母が亡くなる。
1962年、ついに「沈黙の春」が出版され、大論争を巻き起こし、これ以後、環境保護運動が大きく発展する。
「すでに何をしたかよりも、何をしようとしているかにいつも関心を持っている」
「環境保護運動は、永遠に続く運動」
1964年、晩年のレイチェルは病に苦しみ56歳で亡くなった。
友人らにより『センス・オブ・ワンダー』が出版される(読んだ!驚
「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、人生に疲れたり、ひとりぼっちで寂しくなることはなく、
苦しみや心配ごとを乗り越えることができると信じている」
メイン州に国立野生生物保護区が作られ、後にレイチェルの名前が付けられた。
1970年、エコについて考え、広める国際アースデイ第1回が開催された。
1971年、ついにアメリカでDDT使用が禁止される。
レイチェルは、ひとつの生き物だけにこだわらず、食物連鎖、生態系など、生き物同士のつながりを研究した。
「海の中では何も失われない」
「生き物と環境のつながりは、きわめて繊細に織りなされているため、糸がほんの1本もつれてしまえばすべてが台無しになってしまう」
「ひとりで生きるものは何もない」という考え方から生態学(エコロジー)という研究を進めた。
バランスのとれた生態系では、食べられるものの数は、食べるものの数より、いつも10倍ほど多いはずで、
異常に増えたり減ったりすると、地球全体の生態系のバランスが崩れてしまう。
DDT
スイスの農民が作物の害虫駆除に使い始め、第二次世界大戦中のアメリカではチフスやマラリアの病気を防いだ。
薬品を使う化学兵器の開発が進められ、昆虫が実験台に使われたため、いろんな殺虫剤も開発された/驚
(殺虫剤ですら、軍事関係の研究の副産物だったのか・・・
結局、DDTは害虫を駆除することもままならず、代わりに鳥や小動物を殺し、すさまじい環境破壊を引き起こした。
飛行機で撒いた量で給料が支払われたため、必要以上に同じ場所に撒くパイロットもいた。
DDTは、土に分解されず、雨にも流されない、溶けない物質
生き物によって吸収されるたびに、だんだん濃くなってゆく
1.DDTを含んだ水を飲んだプランクトンからは5ppm
2.プランクトンを食べる草食類の魚からは300ppm
3.草食類の魚を食べる肉食の魚からは2500ppm
4.その魚や肉を食べる人間は・・・???
殺虫剤は水に溶けず、土の中に1、2ヶ月たっても消えない
1.殺虫剤を撒く
2.虫が死ぬ
3.その虫を鳥が食べる
4.鳥が死ぬ
5.害虫以外の虫、害虫を食べる虫も死ぬ
1950年代、アメリカ西部の高原を牧草地に変えようとして、セージブッシュをなくすために除草剤が撒かれた。
セージブッシュをはじめとして、それをエサとしたり、住みかとする動物が姿を消した。
食物連鎖の頂点に立つのは人間であり、ヒトも地球上の命の連鎖からは逃げられないことを伝えた。
生態系を利用した、より自然に近い形で有害な昆虫を取り除くことを提案。
レイチェルより前に環境問題に関わった人物
・ジョン・ジェームズ・オーデュボン
・ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
・ヨン・ミュア:ヨセミテの自然を愛し、1892年に自然保護団体「シエラ・クラブ」を設立。
オーデュボン協会と並ぶアメリカの代表的な自然保護団体。
ジョン・F・ケネディ大統領は『沈黙の春』に注目し、政府に調査させた結果、
レイチェルの考えが正しいと認められ、1964年までに40以上の農薬を規制する法律が考え直された。
日本の環境問題
江戸時代に城下町を作るため山林が開発され、お金を作るため金、銀、銅が必要になり鉱山の開発が進んだ。
海岸の埋め立て、川の洪水を防ぐための土木工事もさかんに行われた。18世紀前半にはもう市中にホタルはいなくなった。
明治時代には工業化が進み、さらに自然破壊が増える。戦後、環境問題の法律が決められた。
1967年 公害対策基本法制定
1971年 環境庁設置
1972年 自然環境保全法制定