■『シリーズ戦争孤児4 引揚孤児と残留孤児~海峡を越えた子・越えられなかった子』(汐文社)
本庄豊/編
『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~ーエリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)
【内容抜粋メモ】
・まえがき
「引揚孤児と残留孤児」とは、日本が支配していた旧満州(現・中国東北部)、朝鮮半島、
東南アジア、南洋諸島などからの引き揚げの中で身寄りをなくした孤児、現地に取り残された孤児のこと。
日本の「外地」にいた子どもたちは、戦争で親を失くし、家族と離れ離れになって孤児になった。
満州へ行こう!「開拓団」
満州事変から日中戦争、第二次世界大戦まで、日本は15年間、戦争していた
この間、約27万人が「開拓団」として満州に入植(開墾地に入り、住む)した。
日本から船で朝鮮半島の港、大連港に着き、「南満州鉄道(通称・満鉄)」で奥地の開拓地に向かった。
[小木曽さんの証言]
村の偉い人たちが家に来て、しきりに「お前さんたちこそ満州へ行くべきだ」とすすめた。
日本には仕事がない。満州では20町歩(1町歩は10反。約9920m2)の田畑をくれる。
あの時はああするしかなかった。兵隊さんを送るみたいに盛大に送ってくれた。
新潟から「満州丸」という大きな船が来て。
中国人を追っ払って、「お前たち、出て行け」て。後ろ盾には日本軍がいた。
中国人を使って家を造り、米は朝鮮人に作らせ、日本人は大豆、とうもろこしを作って「供出」(政府に差し出す)した。
「内地」(日本)より生活はよかった。
日本と中国との戦争が激しくなるにつれ、若い男は召集されたため、
16~19歳までの男子を「満蒙開拓青少年義勇軍」として募集した。
義勇軍は、学校の教師が生徒に呼びかけた。
開拓地での暮らし
敗戦後、真っ先に極秘で帰国した軍人・軍属たち
「開拓団」は、家・財産すべて捨て、リュックや風呂敷包み1つで、命からがら各地の収容所に逃げた。
敗戦直前に攻めてきたソ連軍
昭和20年8月8日。ソ連参戦の翌日から、ソ連軍による「開拓団」への爆撃が始まる。
「開拓団」は、現地(中国)の人たちからも襲撃され、女性たちの自殺が相次いだ。
子どもだけ残して死ねないと、わが子を殺す人もいた。
子どもの死
自殺者146人のうち、子どもは104人
逃げる途中での死亡は182人のうち、子どもは159人
避難生活中の死亡は175人のうち、子どもは101人
「開拓団」の子ども総数697人中、459人の命が奪われた。
満州開拓地で生まれた赤ちゃんとお母さん
収容所での極寒と飢え
敗戦後、避難民は増え続け、配給は減り、飢え・寒さ・伝染病で次々と亡くなっていった。
マイナス20~30度になる冬を越さなければならなかった。
[黒田さんの証言]
父は召集令状が来ると生活が困窮するので、「召集免除」という宣伝にひかれ「満蒙(満州とモンゴル)開拓団」に行くことにした。
「満州に行けば白いご飯が食べられる」と宣伝されていたが大間違いだった。
極寒の荒野を、父母は鍬1本で耕し、小麦やコーリャン(とうもろこしの一種)を植えた。
入植1年目の昭和20年、父が突然「関東軍(満州に置かれた日本陸軍部隊)」に召集された。
敗戦で主客が逆転すると、現地の人々は「土地を返せ」と迫り、略奪が始まった。
ソ連軍は婦女子に暴行する噂も伝わった。
私たち一家は、開拓団本部に逃げ込んだが、ここでも略奪が横行していた。
収容所に行くと、待っていたのは「シラミ」「チフス」「食糧難」。
3ヶ月後、母と祖父は寝たきりになり、5歳の弟を「子どもがいないから育てたい」という現地の人に預けた。
祖父は、弟がいなくなって3日後に服毒自殺した。
母は、自分は食べずに、私に「ご飯食べ。食べなあかん」と言った。
朝方、母は冷たくなっていた。収容所の庭に穴を掘り、母を埋めた。
31歳の美しかった母は、あばら骨が浮き出ていた。弟と別れてから7日目だった。
「満蒙開拓団」は約500人いたが、3割が収容所で伝染病・飢え・寒さで亡くなった。
「この子、親おらんようやから、中国人に売ったらどうや」という声が聞こえた。
私は収容所を逃げ出し、路上生活後、キリスト教関係者に保護された。
その後、大連港から舞鶴への帰国船に乗れた。一家が満州に渡って2年後だった。
昭和21年「シベリア抑留」から父が戻り、昭和62年にようやく弟と再会した。
弟は日本語をまったく喋れなかった。
弟「養父母はとても親切だった。僕は小学校しか卒業できず、16歳で働いた。
中国政府は僕を日本人孤児として把握していた。
日本政府は何の調査もしないまま、僕の死亡宣告を出し、父は位牌まで作った」
中国に残された女性の中には、中国人と結婚する人もいた。「中国残留日本人婦人」
コロ島でいつ来るか分からない「引揚船」を待つ
日本への引き揚げが遅れた大きな理由は、日本政府の姿勢にあった。
外務省は「満州や朝鮮半島で暮らす日本人は現地に留まり、そこで生きていくように」『三ヶ国宣言条項受諾に関する在外現地機関に対する訓戒』
「満州や朝鮮にこれから住む者は、日本国籍を離れてもよい」『関東軍方面停戦状況に冠する実視報告』を出した。
敗戦から1年後、昭和21年の夏、ようやく博多港に向けて「引揚船」が出航。
昭和23年末までに総計105万人がコロ島から博多港を経て故郷に帰った。
博多港は、中国大陸に一番近い港で、引揚者、復員兵の受け入れ港となった。
「引揚船」は揺れるので、体調を崩して亡くなった子どももいた。遺体はそのまま海に投げ込んだ。
引揚船内での死者を含めて、約24万人が戦闘・暴行・病気・栄養失調で亡くなった。
3500人の引き揚げ日本人を乗せた江ノ島丸が博多港に入港(昭和21年)
日本に帰れた子どもは「引揚孤児」と呼ばれた。
孤児の中には、親の名前を思い出せない子どももいた。
満州から引き揚げた子どもたち(昭和21年、品川駅)
シベリア抑留
「関東軍」は武器を捨てられ、シベリアなどに送られた。
「残留孤児」
満州で、中国人の養父母に預けられた日本人の子どもたちは、そのまま残された。「残留孤児」
政府は昭和33年、中国からの日本人の集団引き揚げを止めた。
昭和47年「日中国交正常化」、昭和53年「日中平和友好条約締結」などを経て、
中国残留日本人孤児は、肉親を捜すため日本を訪れた。
孤児院の多かった奉天
さまざまな鉄道が集まる奉天は、敗戦後、逃げる人たちが集まった。
孤児たちは孤児院に集められた。孤児院の多くは、仏教、キリスト教の寺院。
奉天の同善堂孤児院
日本人男性相手にお酒を飲ませ、接待する若い女性がたくさんいた。
赤ちゃんを産んでも貧しくて、棄てられることもあった。
もともとの奉天の孤児院は、食べ物はほとんどなく、子どもたちはげっそりと痩せていた。
「すずらん会」(北朝鮮への墓参りと遺骨収集を実現する会)
敗戦後、平成6年にようやく板門店まで墓参りに行くことができた。
[山本千恵子さんの証言]
私たち一家は「羅南」で暮らしていた。父が召集され、母子5人はソ連軍の空襲を避けて山中に逃げた。
山地を歩き、野宿を重ね、略奪を逃れるため暗夜の歩行を余儀なくされ、野草などを食べて、
約2ヶ月かかって「興南」に着き、収容所生活となった。
チフスで2歳の弟が亡くなった。毎日、大勢が死んでいく。
身重の母は女児を出産したが、子どもは亡くなり、3日後、母も亡くなった。
菰にくるまれた遺体は、大きく掘られた凍てつく穴へ並べただけのお別れだった。
引き揚げには、釜山港まで長距離を歩かなければならず、敗戦時の混乱で悲惨だった。
リュックに持てるだけ荷物を入れ、20~30人の集団で逃げるように去った。
農家に立ち寄り、物々交換して、荷物は空になっていった。
ようやく「咸興」まで着くと難民でいっぱい。1部屋に何世帯も暮らす窮乏生活だった。
最大の難関「38度線」を突破した。父と兄が亡くなり、私はあまりの惨事に気を失った。
気づくと、病院のベッドにいた。
父と兄の遺体は見つからない。
噂によると、死体は荷車に山積みされ、1つの大きな墓穴に投げ込まれ、カラスがついばんだという。
やっと博多港に上陸。「DDT」(農薬として使われた殺虫剤。米軍が持ち込んだ)が散布され、「聖福寮」に入所できた。
「聖福寮」では、諸先生方が孤児に親身に世話してくれた。
髪にシラミがいて、疥癬が出て、見るも不潔な私たちを洗って、傷の手当をしてくれた。
「聖福寮」
引き揚げ孤児には、皮膚病、下痢、眼病が多く、引揚者医療孤児施設「聖福寮」に収容された。
「聖福寮」は、文化人類学者・泉靖一が中心になって昭和21年に設立した「在外同胞援護会救援部」がもと。
寮長の山本医師は、寮母を必死に探し、『婦人の友』(福岡友の会)の若い女性3人がボランティアに参加。その後十数人に増えた。
「聖福寮」全景/『婦人の友』(福岡友の会)
ほとんどの子どもは何も持たず、母の遺骨や位牌だけ持っている子もいた。
「聖福寮」にはお風呂の日があり、1人ずついたわりながら体を洗い、真っ白なシッカロールを塗ってくれた。
夜には、ボランティアの大学生が勉強を教えた。
福岡県筑紫野市にある水子地蔵の入った祠と、「仁」と刻まれた石碑
昭和21年、田中医師に若い女性の引揚者が来て、涙を流すばかりだった。
ソ連兵にレイプされ、翌日、別のソ連兵に再びレイプされ、博多に着いた時は妊娠していた。
母親は「娘の体を治してください」と頼んだ。
田中医師は迷った末、赤ちゃんを堕胎することにしたが、
当時の日本では堕胎は禁止されていたため、手術の技術が未熟で、女性と子どもの両方が亡くなってしまった。
引き揚げの途中でソ連兵などからレイプされ、妊娠したり、性病に感染したりする女性が大勢いた。約1割という調査結果がある。
女性の中には、引き揚げ船から身投げする者もいた。
女性の負担を除いて故郷に帰したいという思いで、「二日市保養所」を開設。
が、女性たちは決して口外しないため、船内で医師がパンフレットを配り、
秘密は守るので、不法妊娠、性病など相談するよううながした。
「二日市保養所」で昭和20年~22年の約1年半で、治療・手術を受けた女性は400人以上いたと言われる。
赤ちゃんの遺体の多くは、桜並木の土手に埋められ、冥福を祈り祠と石碑が建てられた。
[村石さんの証言(元二日市保養所の看護師)]
私は、敗戦後の外地で、ソ連兵や現地人にレイプされた婦女の手当てについた。
淋病・梅毒、不法妊娠を余儀なくなれた同性を見るのが辛かった。
17歳の女子師範学生が「悔しい、悔しい」と言いながら息を引き取った。
サイパンで孤児を守った松本忠徳さん
[山田良子さん(当時11歳)の証言]
収容所で、親無し子は大人たちに邪魔者扱いされ、放り出され、差別を受けた。
妹は病院に行ったまま、帰らず連絡もない。
弟と再会したのも束の間、栄養失調で亡くなった。
その3日後に、食糧と配給物資が届いた。もう少し早かったらと歯ぎしりするばかりだった。
沖縄出身の松本忠徳さんは、昭和6年、38歳で移住して戦争に巻き込まれた。
収容所で孤児院の運営にかかわり、院長になる。
劣悪な環境を改善し、子どもたちは見違えるほど元気になった。
引き揚げ時、松本院長は孤児たちを沖縄に連れて帰った。
サイパン孤児院。松本院長と子どもたち
サイパン、テニアンに渡ったのは沖縄出身者が多かった
昭和19年、米軍がサイパンに上陸し、激戦となった。
崖から投身自殺する者「バンザイクリフ」(見たなあ)、手榴弾で「集団自決」する者もいた。
伊佐さんに残された1枚の家族写真
伊佐さんは昭和10年、テニアンで生まれた。
昭和19年、米軍がサイパンに上陸。
一家は「避難壕」に逃げたが、日本軍が来て「ここは軍が使うから、他へ移動しろ」と命令された。
マルポ島の壕で米軍戦艦の砲撃を受け、すべての家族を一瞬で失った。
「どうしようかと考えて、涙も出なかった」
2~3日遺体と過ごし、飲まず食わずで眠っていたところを米軍に保護された。
収容所から知人とともに初めて沖縄に渡り、祖母と再会。
戦前に住んでいた集落は、米軍が「接収」していてしばらく戻れず、親戚に助けられて高校まで通った。
長い間、誰にも「戦争孤児」と言えずにいた。
8人家族で、なぜ自分だけ生きているのかと問い続けた。
その後、米軍基地で働いたり、沖縄の日本への「復帰運動」にも力を入れている。
洞窟から米兵に助け出される少年
品川博先生と伊藤幸男さん
幸男さんの父は満州で戦死。空襲で母が亡くなる。
知人の家に預けられるも居辛くて抜け出し、全国を放浪。
米兵相手の靴磨きで稼いでいた。
品川さんと出合ったのは、静岡県の孤児施設「葵寮」。
品川先生は、他の先生と違い、暴力で子どもたちを押しつけようとはしなかった。
「鐘の鳴る丘・少年の家」
「葵寮」を辞めた品川さんは、孤児6人を連れて前橋市に戻り、
夢だった自分たちの家を約10年かかって造った。
名前は、当時のラジオドラマをモデルにし、原作者・菊田一夫さんも応援してくれた。
幸男さんは、アメリカ留学が決まり、高校でスペイン語、フランス語を教える教師になった。
『愛と勇気の鐘 孤児たちに一生をささげる品川博の愛の軌跡』
[参考資料]
『中国に残された子どもたち』古世古和子
ドラマ『遠い約束~星になったこどもたち~』(2014)
原作『満州の星くずと散った子供たちの遺書』(夢工房)
「満州に行けば、土地がもらえる。豊かな人生が待っている。
“王道楽土”? そんなものはどこにもなかったんだ。
人から力ずくで奪ったもんだ。幸せになんかなれるわけがない。愚かな話だよ」
「王道楽土」:日本が満州を統治するために使ったスローガン。
ドラマ『大地の子』(1995)原作:山崎豊子
「文化大革命」
「労働改造所」
本庄豊/編
『シリーズ戦争孤児2 混血孤児~ーエリザベス・サンダース・ホームへの道』(汐文社)
【内容抜粋メモ】
・まえがき
「引揚孤児と残留孤児」とは、日本が支配していた旧満州(現・中国東北部)、朝鮮半島、
東南アジア、南洋諸島などからの引き揚げの中で身寄りをなくした孤児、現地に取り残された孤児のこと。
日本の「外地」にいた子どもたちは、戦争で親を失くし、家族と離れ離れになって孤児になった。
満州へ行こう!「開拓団」
満州事変から日中戦争、第二次世界大戦まで、日本は15年間、戦争していた
この間、約27万人が「開拓団」として満州に入植(開墾地に入り、住む)した。
日本から船で朝鮮半島の港、大連港に着き、「南満州鉄道(通称・満鉄)」で奥地の開拓地に向かった。
[小木曽さんの証言]
村の偉い人たちが家に来て、しきりに「お前さんたちこそ満州へ行くべきだ」とすすめた。
日本には仕事がない。満州では20町歩(1町歩は10反。約9920m2)の田畑をくれる。
あの時はああするしかなかった。兵隊さんを送るみたいに盛大に送ってくれた。
新潟から「満州丸」という大きな船が来て。
中国人を追っ払って、「お前たち、出て行け」て。後ろ盾には日本軍がいた。
中国人を使って家を造り、米は朝鮮人に作らせ、日本人は大豆、とうもろこしを作って「供出」(政府に差し出す)した。
「内地」(日本)より生活はよかった。
日本と中国との戦争が激しくなるにつれ、若い男は召集されたため、
16~19歳までの男子を「満蒙開拓青少年義勇軍」として募集した。
義勇軍は、学校の教師が生徒に呼びかけた。
開拓地での暮らし
敗戦後、真っ先に極秘で帰国した軍人・軍属たち
「開拓団」は、家・財産すべて捨て、リュックや風呂敷包み1つで、命からがら各地の収容所に逃げた。
敗戦直前に攻めてきたソ連軍
昭和20年8月8日。ソ連参戦の翌日から、ソ連軍による「開拓団」への爆撃が始まる。
「開拓団」は、現地(中国)の人たちからも襲撃され、女性たちの自殺が相次いだ。
子どもだけ残して死ねないと、わが子を殺す人もいた。
子どもの死
自殺者146人のうち、子どもは104人
逃げる途中での死亡は182人のうち、子どもは159人
避難生活中の死亡は175人のうち、子どもは101人
「開拓団」の子ども総数697人中、459人の命が奪われた。
満州開拓地で生まれた赤ちゃんとお母さん
収容所での極寒と飢え
敗戦後、避難民は増え続け、配給は減り、飢え・寒さ・伝染病で次々と亡くなっていった。
マイナス20~30度になる冬を越さなければならなかった。
[黒田さんの証言]
父は召集令状が来ると生活が困窮するので、「召集免除」という宣伝にひかれ「満蒙(満州とモンゴル)開拓団」に行くことにした。
「満州に行けば白いご飯が食べられる」と宣伝されていたが大間違いだった。
極寒の荒野を、父母は鍬1本で耕し、小麦やコーリャン(とうもろこしの一種)を植えた。
入植1年目の昭和20年、父が突然「関東軍(満州に置かれた日本陸軍部隊)」に召集された。
敗戦で主客が逆転すると、現地の人々は「土地を返せ」と迫り、略奪が始まった。
ソ連軍は婦女子に暴行する噂も伝わった。
私たち一家は、開拓団本部に逃げ込んだが、ここでも略奪が横行していた。
収容所に行くと、待っていたのは「シラミ」「チフス」「食糧難」。
3ヶ月後、母と祖父は寝たきりになり、5歳の弟を「子どもがいないから育てたい」という現地の人に預けた。
祖父は、弟がいなくなって3日後に服毒自殺した。
母は、自分は食べずに、私に「ご飯食べ。食べなあかん」と言った。
朝方、母は冷たくなっていた。収容所の庭に穴を掘り、母を埋めた。
31歳の美しかった母は、あばら骨が浮き出ていた。弟と別れてから7日目だった。
「満蒙開拓団」は約500人いたが、3割が収容所で伝染病・飢え・寒さで亡くなった。
「この子、親おらんようやから、中国人に売ったらどうや」という声が聞こえた。
私は収容所を逃げ出し、路上生活後、キリスト教関係者に保護された。
その後、大連港から舞鶴への帰国船に乗れた。一家が満州に渡って2年後だった。
昭和21年「シベリア抑留」から父が戻り、昭和62年にようやく弟と再会した。
弟は日本語をまったく喋れなかった。
弟「養父母はとても親切だった。僕は小学校しか卒業できず、16歳で働いた。
中国政府は僕を日本人孤児として把握していた。
日本政府は何の調査もしないまま、僕の死亡宣告を出し、父は位牌まで作った」
中国に残された女性の中には、中国人と結婚する人もいた。「中国残留日本人婦人」
コロ島でいつ来るか分からない「引揚船」を待つ
日本への引き揚げが遅れた大きな理由は、日本政府の姿勢にあった。
外務省は「満州や朝鮮半島で暮らす日本人は現地に留まり、そこで生きていくように」『三ヶ国宣言条項受諾に関する在外現地機関に対する訓戒』
「満州や朝鮮にこれから住む者は、日本国籍を離れてもよい」『関東軍方面停戦状況に冠する実視報告』を出した。
敗戦から1年後、昭和21年の夏、ようやく博多港に向けて「引揚船」が出航。
昭和23年末までに総計105万人がコロ島から博多港を経て故郷に帰った。
博多港は、中国大陸に一番近い港で、引揚者、復員兵の受け入れ港となった。
「引揚船」は揺れるので、体調を崩して亡くなった子どももいた。遺体はそのまま海に投げ込んだ。
引揚船内での死者を含めて、約24万人が戦闘・暴行・病気・栄養失調で亡くなった。
3500人の引き揚げ日本人を乗せた江ノ島丸が博多港に入港(昭和21年)
日本に帰れた子どもは「引揚孤児」と呼ばれた。
孤児の中には、親の名前を思い出せない子どももいた。
満州から引き揚げた子どもたち(昭和21年、品川駅)
シベリア抑留
「関東軍」は武器を捨てられ、シベリアなどに送られた。
「残留孤児」
満州で、中国人の養父母に預けられた日本人の子どもたちは、そのまま残された。「残留孤児」
政府は昭和33年、中国からの日本人の集団引き揚げを止めた。
昭和47年「日中国交正常化」、昭和53年「日中平和友好条約締結」などを経て、
中国残留日本人孤児は、肉親を捜すため日本を訪れた。
孤児院の多かった奉天
さまざまな鉄道が集まる奉天は、敗戦後、逃げる人たちが集まった。
孤児たちは孤児院に集められた。孤児院の多くは、仏教、キリスト教の寺院。
奉天の同善堂孤児院
日本人男性相手にお酒を飲ませ、接待する若い女性がたくさんいた。
赤ちゃんを産んでも貧しくて、棄てられることもあった。
もともとの奉天の孤児院は、食べ物はほとんどなく、子どもたちはげっそりと痩せていた。
「すずらん会」(北朝鮮への墓参りと遺骨収集を実現する会)
敗戦後、平成6年にようやく板門店まで墓参りに行くことができた。
[山本千恵子さんの証言]
私たち一家は「羅南」で暮らしていた。父が召集され、母子5人はソ連軍の空襲を避けて山中に逃げた。
山地を歩き、野宿を重ね、略奪を逃れるため暗夜の歩行を余儀なくされ、野草などを食べて、
約2ヶ月かかって「興南」に着き、収容所生活となった。
チフスで2歳の弟が亡くなった。毎日、大勢が死んでいく。
身重の母は女児を出産したが、子どもは亡くなり、3日後、母も亡くなった。
菰にくるまれた遺体は、大きく掘られた凍てつく穴へ並べただけのお別れだった。
引き揚げには、釜山港まで長距離を歩かなければならず、敗戦時の混乱で悲惨だった。
リュックに持てるだけ荷物を入れ、20~30人の集団で逃げるように去った。
農家に立ち寄り、物々交換して、荷物は空になっていった。
ようやく「咸興」まで着くと難民でいっぱい。1部屋に何世帯も暮らす窮乏生活だった。
最大の難関「38度線」を突破した。父と兄が亡くなり、私はあまりの惨事に気を失った。
気づくと、病院のベッドにいた。
父と兄の遺体は見つからない。
噂によると、死体は荷車に山積みされ、1つの大きな墓穴に投げ込まれ、カラスがついばんだという。
やっと博多港に上陸。「DDT」(農薬として使われた殺虫剤。米軍が持ち込んだ)が散布され、「聖福寮」に入所できた。
「聖福寮」では、諸先生方が孤児に親身に世話してくれた。
髪にシラミがいて、疥癬が出て、見るも不潔な私たちを洗って、傷の手当をしてくれた。
「聖福寮」
引き揚げ孤児には、皮膚病、下痢、眼病が多く、引揚者医療孤児施設「聖福寮」に収容された。
「聖福寮」は、文化人類学者・泉靖一が中心になって昭和21年に設立した「在外同胞援護会救援部」がもと。
寮長の山本医師は、寮母を必死に探し、『婦人の友』(福岡友の会)の若い女性3人がボランティアに参加。その後十数人に増えた。
「聖福寮」全景/『婦人の友』(福岡友の会)
ほとんどの子どもは何も持たず、母の遺骨や位牌だけ持っている子もいた。
「聖福寮」にはお風呂の日があり、1人ずついたわりながら体を洗い、真っ白なシッカロールを塗ってくれた。
夜には、ボランティアの大学生が勉強を教えた。
福岡県筑紫野市にある水子地蔵の入った祠と、「仁」と刻まれた石碑
昭和21年、田中医師に若い女性の引揚者が来て、涙を流すばかりだった。
ソ連兵にレイプされ、翌日、別のソ連兵に再びレイプされ、博多に着いた時は妊娠していた。
母親は「娘の体を治してください」と頼んだ。
田中医師は迷った末、赤ちゃんを堕胎することにしたが、
当時の日本では堕胎は禁止されていたため、手術の技術が未熟で、女性と子どもの両方が亡くなってしまった。
引き揚げの途中でソ連兵などからレイプされ、妊娠したり、性病に感染したりする女性が大勢いた。約1割という調査結果がある。
女性の中には、引き揚げ船から身投げする者もいた。
女性の負担を除いて故郷に帰したいという思いで、「二日市保養所」を開設。
が、女性たちは決して口外しないため、船内で医師がパンフレットを配り、
秘密は守るので、不法妊娠、性病など相談するよううながした。
「二日市保養所」で昭和20年~22年の約1年半で、治療・手術を受けた女性は400人以上いたと言われる。
赤ちゃんの遺体の多くは、桜並木の土手に埋められ、冥福を祈り祠と石碑が建てられた。
[村石さんの証言(元二日市保養所の看護師)]
私は、敗戦後の外地で、ソ連兵や現地人にレイプされた婦女の手当てについた。
淋病・梅毒、不法妊娠を余儀なくなれた同性を見るのが辛かった。
17歳の女子師範学生が「悔しい、悔しい」と言いながら息を引き取った。
サイパンで孤児を守った松本忠徳さん
[山田良子さん(当時11歳)の証言]
収容所で、親無し子は大人たちに邪魔者扱いされ、放り出され、差別を受けた。
妹は病院に行ったまま、帰らず連絡もない。
弟と再会したのも束の間、栄養失調で亡くなった。
その3日後に、食糧と配給物資が届いた。もう少し早かったらと歯ぎしりするばかりだった。
沖縄出身の松本忠徳さんは、昭和6年、38歳で移住して戦争に巻き込まれた。
収容所で孤児院の運営にかかわり、院長になる。
劣悪な環境を改善し、子どもたちは見違えるほど元気になった。
引き揚げ時、松本院長は孤児たちを沖縄に連れて帰った。
サイパン孤児院。松本院長と子どもたち
サイパン、テニアンに渡ったのは沖縄出身者が多かった
昭和19年、米軍がサイパンに上陸し、激戦となった。
崖から投身自殺する者「バンザイクリフ」(見たなあ)、手榴弾で「集団自決」する者もいた。
伊佐さんに残された1枚の家族写真
伊佐さんは昭和10年、テニアンで生まれた。
昭和19年、米軍がサイパンに上陸。
一家は「避難壕」に逃げたが、日本軍が来て「ここは軍が使うから、他へ移動しろ」と命令された。
マルポ島の壕で米軍戦艦の砲撃を受け、すべての家族を一瞬で失った。
「どうしようかと考えて、涙も出なかった」
2~3日遺体と過ごし、飲まず食わずで眠っていたところを米軍に保護された。
収容所から知人とともに初めて沖縄に渡り、祖母と再会。
戦前に住んでいた集落は、米軍が「接収」していてしばらく戻れず、親戚に助けられて高校まで通った。
長い間、誰にも「戦争孤児」と言えずにいた。
8人家族で、なぜ自分だけ生きているのかと問い続けた。
その後、米軍基地で働いたり、沖縄の日本への「復帰運動」にも力を入れている。
洞窟から米兵に助け出される少年
品川博先生と伊藤幸男さん
幸男さんの父は満州で戦死。空襲で母が亡くなる。
知人の家に預けられるも居辛くて抜け出し、全国を放浪。
米兵相手の靴磨きで稼いでいた。
品川さんと出合ったのは、静岡県の孤児施設「葵寮」。
品川先生は、他の先生と違い、暴力で子どもたちを押しつけようとはしなかった。
「鐘の鳴る丘・少年の家」
「葵寮」を辞めた品川さんは、孤児6人を連れて前橋市に戻り、
夢だった自分たちの家を約10年かかって造った。
名前は、当時のラジオドラマをモデルにし、原作者・菊田一夫さんも応援してくれた。
幸男さんは、アメリカ留学が決まり、高校でスペイン語、フランス語を教える教師になった。
『愛と勇気の鐘 孤児たちに一生をささげる品川博の愛の軌跡』
[参考資料]
『中国に残された子どもたち』古世古和子
ドラマ『遠い約束~星になったこどもたち~』(2014)
原作『満州の星くずと散った子供たちの遺書』(夢工房)
「満州に行けば、土地がもらえる。豊かな人生が待っている。
“王道楽土”? そんなものはどこにもなかったんだ。
人から力ずくで奪ったもんだ。幸せになんかなれるわけがない。愚かな話だよ」
「王道楽土」:日本が満州を統治するために使ったスローガン。
ドラマ『大地の子』(1995)原作:山崎豊子
「文化大革命」
「労働改造所」