花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

私の住まい史(1)

2008年02月10日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 昨日、「つらら」について書いた後で、私が半生を暮らしてきた住まいについて振り返りたくなった。もしかすると私の個人的な住まい史の中に、北海道の住生活史が、また、日本の経済成長史をのぞき見る事ができるかも知れないと思っている。

 「つらら」には、子ども時代住んでいた木造の家について、その雪下ろしの思い出を書いたが、今考えると本当に冬は大変な家だった。
 壁は土壁で、その表面に板を重ねて張ったトタン屋根の家だった。
 北海道なのに基礎は布基礎ではなく、コンクリートの土台を地面に何十本か埋め、板張りの床を作ってその上に畳を敷いただけの物だった。窓も木の窓枠に小さなガラスが数枚入っていただけだったし、板張り天井も木の節が抜けた所には穴が開いていた。
 冬は冷たいすきま風が入るので、昭和30年代になると売られるようになった透明なビニールを買ってきて、外側から窓に貼った。お陰で冬中、窓を開けることができなかった。
 その町は北海道の豪雪地帯なので降雪量が凄く、毎年、窓を塞いで屋根の軒下に届くほど雪が沢山降った。幾つもの窓の前を除雪して明かりが入るようにする仕事も私の役目だったが、除雪するには窓を塞いでいる雪を跳ね上げるしか方法がなかった。
 そんな寒い家だったから、居間のストーブが唯一の熱源だったが、石炭ストーブだったために月に一回は煙突掃除が必要で、その度にまき散らされる真っ黒い煤と、その後始末のための掃除にはいつも閉口したものだった。
 寝室には当然暖房はなかったから、真冬は寝る時、熱い湯を入れた湯たんぽを利用していた。この湯は、毎朝、顔を洗うときに役立った。朝起きると、布団の襟元が自分が吐いた息でガバガバに凍ったようになっていることもあった。
 そんな隙間だらけの家だったから、結露やカビが生えること等は聞かなかった。

 昭和30年代の後半、私は念願の札幌の大学に入った。そこで暮らした定員数十人の女子寮の作りも同じ様な古い木造だった。
 だるま式の石炭ストーブがある1間幅の押入がついた6畳間に、二人ずつ生活するのだった。ベットなどという洒落た物は無かったし、煙突掃除があった日の真っ黒く汚れた部屋の掃除は大変だった。
 風呂場はコンクリートの床に大きな木製の桶が置かれていて、週に2回湧かされた。
 食事は朝と夕の2回出た。調理の女性が居たが、自治寮だったので献立を立てるのは寮委員だったし、配膳は毎朝順番に当番制で全員が行った。
 22時の門限があり、遠くへアルバイトに出掛けた場合は、やっと間に合う事もあった。
 それでも国立大学の寮だったので寮費は比較的安かったが、学費も全て自分で賄わなければならなかった私の大学生活は決して楽ではなかった。日本育英会の奨学資金と家庭教師などのアルバイトを掛け持ちして、何とか4年間頑張って卒業した。


コメント (2)
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