不動産屋さんが紹介してくれた土地を、翌日、早速見に行った。住んでいたマンションから車で20分の場所にあった。
面積は丁度100坪で、南面した更地が落ち着いた雰囲気の住宅街の一画にあった。敷地の南側の幅12mある道路は、幹線道路の一つらしいが交通量は少なく静かな雰囲気だった。
また、年をとって車に乗れなくなっても、JR駅が近く、徒歩6~7分で行くことができ、電車に乗れば札幌駅までは25分で行ける。おまけに土地から徒歩3~4分の場所には、市内循環バスの乗り場もあった。大きな病院もあり、立派な図書館もある。
それなのに価格は、札幌のかなり交通の不便な郊外の土地よりも安かった。これなら上手に栽培できないかも知れない大根や豌豆を植えてもそれ程勿体なくはない。
札幌のベットタウンになっている中都市のその土地を、私は一遍で気に入った。そして、翌日、早速、買う返事をした。間もなく売買契約を結び、手持ちの資金で全額支払いも済ませた。
それからは、その土地に退職後どんな家を建てるか、あれこれ考えながら楽しんだ。2~3年、夏には草刈りにも通った。
一方、60才で退職した後、私の場合、62才になるまで年金が出なかった。それで引き続きパート労働をしたいと思っていた。
そうしたら、たまたまマンションから歩いていける職場に再就職できることになったのだ。それで仕事を続ける間は、もう少しそのマンションに住むことにした。
ところが全く考えても見なかった晴天の霹靂に見舞われたのだ。
パートで働いていた秋に、偶然にも左乳癌を見つけたのだ。
それからは手術、術後の治療と続く中で、土地は買ったものの、私が何時まで生きられるのか、果たして園芸を楽しむ事ができる迄に元気になれるだろうかと悩んだ。
特に初めの半年位は、治療の副作用のために姿も心も悲惨だったし、病気に対する十分な知識も足りなくて、不安ばかり募り、希望を見いだせない日々が続いた。
悩みを主治医に相談してみたら、「自分で決めなさい。」と言われた。その返事を聞いて、私は「ああ、そうなんだ。直ぐには死なないみたいだから、私の最後の仕事として、思い切って家を建てよう。」と決心した。
それと癌になって自分の死を自覚したら、「例え残された生が短くても、精一杯生きよう」という意識が次第に強く湧いてきた。
また、お金は単に持っていても価値が無い。どうせ死ぬ時はあの世に持って行けないのだから、退職金などの貯蓄は、自分への褒美として新しい家の建築費に使おう。
そして、生きている間の生活は、予算を立て、贅沢さえしなければ何とか年金で暮らせるはずだと思ったのだ。
決めたら一日でも早い方が良い。抗癌剤の副作用で頭髪は脱毛していたが、大分体力が戻って来ると、夏でも帽子を被って幾つもの業者に建築現場を見せて貰い、依頼する業者を捜して歩いた。
また、病院の帰り、体調が良い時には、「北海道住宅指導センター」まで50分歩いて行った。そして、療養中に家で何枚も書き直した平面図をその日の当番の建築士に見て貰ってアドバイスを受けたり、色々な相談にも乗って貰った。特にバリアフリー建築を得意とする建築士のアドバイスは、健康に不安を抱き、老年期に向けた私の家造りをするのに役立った。
数ヶ月後、最終的に、「外断熱工法」の建築施行会社に決めた。
その後の詳しい内容は、1年前に既に「外断熱・バリアフリーの家」のカテゴリーでブログに書いてあるので、この続きとして読んでみて欲しい。
長かった私の「住まい史」はこれで終わる。
振り返って見ると、何と私は色々な住まいの体験をして来た事かと感慨深い。その時々に実体験した住まいの苦労も喜びも、全部、次へのステップになった様に思う。
そして皮肉な事に、最後の家では、病気になり仕事ができなくなったからこそ、自分の家造りをじっくりと考えたり、あちこち見て歩く時間も持てたのだと思う。
今の家は、私の生命が終わりに近づく時迄、できるだけ在宅で生活したいと思い、必要になった時にはいつでも家庭用エレベーターが付けられるようにしておく等、あれこれ自分で考えて建てた家だ。だから今後はもう、住まいを変えることは無いと思う。
最後の死を施設で迎えるか、あるいは病院になるか分からないが、少なくともこの家でぎりぎりまで暮らしたいと思う。
だから、これからも体調に注意しながら庭仕事を楽しみ、季節の変化を愛で、近隣の人達ともゆるやかな人間関係を築きながら、自分らしく楽しく、最後まで私の命がほのかに輝くように生きたいと願っている。
今はまだ、庭は深い雪に埋もれているが、雪が溶けて花木が芽吹き、色とりどりの花を咲かせ、庭仕事ができる季節の到来が待ち遠しい。