春先、毎日、無数に湧き出すヤスデに悩まされていた家で、長男は2才を迎えた。
その夏、私が働いている間、ずっと子どもを見守ってくれていた母親が、突然体調を崩して入院した。急性肝炎だった。そしてあっという間に肝硬変に進行して、秋にはわずか54才の若さで急逝してしまった。
私の精神的なショックは言葉では言い表す事ができない程大きかったが、葬儀を済ませた数日後には働かなければならないという現実を前にして、悲しみに浸っている暇はなかった。
その町には保育所はあったが、4才以上の子どもしか預からないという。仕方がないので2才半になる長男を連れて早朝の汽車に乗り、職場に通った。職場のある町でも保育所は3才児以上の子どもしか預かってはくれなかったが、見るに見かねた同僚の奥さんが暖かい手を差し伸べてくれた。
冬が来て雪が舞い出すと、子連れ列車通勤はもう心身共に限界になった。意を決して夫に相談し、私は子どもと二人で職場のある町の公営住宅に引っ越すことにしたのだ。
所がその1DKの公営住宅は新築されたばかりだったが風呂がなかった。仕方なく道東の凍てつく夜に2才の子を連れて公衆浴場まで片道30分程かけて歩いたが、本当に大変だった。
所が、また私達を見かねた同僚から声がかかり、その家で風呂を焚いた日に、たまに子どもと貰い風呂をした。凄く有り難かった。
夫と別居しての共働き生活は、もう限界かも知れないと思っていた矢先、私の生活を見かねた上司が力を尽くしてくれて、3才未満児の保育所がある遠くの町の職場へ私の転勤が決まった。その町は、夫の勤める町の隣だった。
また家族で生活ができると喜び勇んで引っ越しの準備をしたのだが、そこも小さな町のため、またまた適当な借家がない。何とか見つけた借家は、安普請の2DKの一戸建てだった。
その家は夏は快適なのだが、冬は床から冷気が上がって来て座っていられないのだ。子どもと二人でストーブの傍に置いた長いすの上にお座りをして過ごした。
この家で暮らし始めてから、子どもがしょっちゅう風邪を引くようになり、やがて慢性化して気管支喘息だと言われるようになった。その内、何度も中耳炎をぶり返す様になり、毎週のように病院通いをした。いつも具合が良くない子どもの看病も、親としては辛いことだった。
またその家は、玄関側に雪が落ちてくる屋根の形だったため、大雪が降って雪が積もると、外開きの玄関戸が開かなくなり慌てることもあった。そんな時はベランダから外に出て、玄関前を除雪して出勤した。
風呂場は木製だったが、ある時、子どもと入っていたら底が抜けた。古くて底板が腐っていたのだと思う。大家さんに連絡して新しい風呂桶に取り替えて貰った。
この家では、初めてポット式の石油ストーブをつけた。煙突掃除の必要がなくなってもの凄く楽になった。また、初めて電話をつけた時には大感激した。
保育所へは2年前に車を持つようになった夫が、朝、子どもを送り届け、夏場の夕方は、私が自転車で子どもを迎えに行った。その保育所で息子は、最初は3才未満児のクラスに入ったが、毎年一つずつ上のクラスになって、小学校に上がるまで4年間通い続けた。
就職したのは昭和40年代に入ったばかりの時である。
それまで名前も知らなかった道東のある小さな田舎町からスタートした職業生活は、町が用意していた女子寮の一室で始まった。
ここでは石炭のルンペンストーブがついた2階の6畳間があてがわれた。ガステーブルがなかった1年間は、部屋のルンペンストーブで煮炊きをしたので、熱くて参った。水道のある調理場は1階の片隅にあったから、階段の上り下りも大変だった。
しかし、その寮で暮らしていた数名の独身女性達とは、直ぐにうち解けた話ができる友人になれた。
やがて結婚することになり、新居となる借家に引っ越しをした。
住むことになった町は職場から30km離れた田舎町だったが、今のようなアパートはほとんどなかった。新居とは名ばかりのやっと見つけた家は木造の古家で、冬になると玄関の土台が凍上して戸枠が歪み、ガラス戸が閉まらなかった。5cm位できた隙間からはマイナス20度前後にもなる冷気や雪が容赦なく吹き込んで来て、本当に参った。
洗濯機も湯沸かし器もない新生活のスタートだったので、冬場の洗濯には難儀した。初めての洗濯機は半年後に買った。調理は一口のプロパンガスコンロだった。
当時、車はまだ一般化していなかったので運転免許取得などには考えも及ばず、私は毎日、朝6時40分発の国鉄で通勤した。真冬のマイナス20度を超す気温の中、当時流行したミニスカートを履いて駅から職場まで行く間に足が紫色になったが、当時の私は若かったのだと思う。
余りにもひどい古家だったので、それから間もなく、少しマシな借家を見つけて引っ越しをする事にした。
しかし、住んでみたら陽が当たらないし、木造モルタル壁なのに凄く寒い家だった。
その家には背の高い貯炭式のストーブを付けた。このストーブは、予め一日分の石炭を一杯ストーブに入れ、下から少しずつ燃やしていく構造になっていて、一々石炭をくべる手間がいらない新式のストーブだった。
しかし、ある年、昼間働いている時に、天井から下がっている棒状の蛍光管が幾つも落ちる程の大きな地震が起きた。考えたらいつも火種があるストーブが誰もいない家にある事を思い出した。もしも地震で倒れたら出火する。慌てて職場から汽車に乗り、家に駆けつけたが、大丈夫だったのでホットした。あちこちで道路が陥没したり、函館では大学の校舎が潰れたりしたが、その時の我が家では棚のこけしが一つ倒れていただけだった。
やがてこの家で、初めて生まれた子供を育てる事になったのだが、生後1ヶ月過ぎから夜泣きが始まり、子どもの世話を引き受けるために同居してくれた私の母親を困らせた。
その頃丁度、2戸建ての借家が1棟新築されるという事を伝え聞き、どんな家でもここよりマシに違いないと考えて、間取りを確かめることもせずに予約した。
初めて入る木造モルタル壁の新築の家は、2DKの西向きで陽が射す明るい家だった。西側は畑になっていたので初めて開放感も味わえた。
不思議なことにその家に引っ越した夜から、子どもは夜泣きしなくなり、私達もやっと落ち着いた住生活ができるようになった。
その家でも貯炭式のストーブを付けたが、やっと初めて、すきま風が少なく、割合温かな家での冬越しができるようになったのだった。
しかし、春になって驚いた。畑側のモルタル壁一面に、下から這い上がった無数のヤスデが真っ黒くへばりついているのだ。箒でたたき落としてから集めて燃やすのだが、ちり取り2杯にもなり、毎日、次々と土中から湧き上がって来るのだった。多分、昔は田圃だった所に家を建てたのかも知れないと思った。
この家では2年間暮らした。