≪最後に≫
思い切って出かけたマレーシアだったが、現地ガイドは戦時中の日本統治にはほとんど触れず、私達を気遣ってくれた様子だった。しかし、私は『旅行ガイドにないアジアを歩くーマレーシア』(梨の木舎)を図書館で見つけて借り、当時の実情を知った。
それによると、マレーシア国内にある日本人に殺された人たちの「追悼碑」は、著者たちが調査したものだけで70か所以上あり、中には赤ん坊を含む村人全員が虐殺されたとか、村の男性数十人が広場に集められて殺され、放置されたり埋められたりしたという場所も何か所にものぼっている。(彼らに穴を掘らせてから側に並んで立たせ、背後から銃を撃ったり銃剣で刺して殺戮して埋めたという調査も出て来る。共通したやり方は、集めた大勢の人達を幾つかに分けて兵士が4~5人ずつ付き、離れた場所に連行してから殺害したと書かれていた)
また、北ボルネオ島の売られた日本人女性『からゆきさん』で有名な「サンダカン」では、1944年11月に連合軍の大空襲を受け始めると、この地の放棄を決めた日本軍は、軍事用飛行場の造成をさせていた連合軍のオーストラリア軍、イギリス軍の捕虜を含む1000人強の兵士の逃亡を恐れ、250km離れたラナウまで険しいジャングルを3回に分けて強行行進させたという。
この途中、熱帯というだけでなく、食糧不足、過労で多くが倒れたり病気になり、その都度、刺殺、射殺された犠牲者が多く出て、日本の敗戦時にはわずか6人しか生存者がいなかったというのだ。「サンダカン、死の行進」といわれるこれらの事実を日本の私達にはあまり知らされていない。
私はこの本を読んで、今までナチスドイツが行ったおぞましいホロコーストや日本軍が中国で行った残酷非道な行いに心を傷めて来たが、ここでもまた、敗戦までの僅か3年9か月の間に、日本軍は大勢のマレーシア人(日本軍は、抗日運動をした中華人の排除を狙ったのだというが)や、連合軍捕虜を殺害したのである。
歴史に「もし」は無いというが、もし日本の侵攻が無ければ、マレーシアはもっと早くに大きな発展を遂げていたのではとも思ったりするのだ。
こうした史実を私達も知って、今世紀以降の国のあり方、国政の進み方に生かさなければならないと強く思う。
僅か数日間の旅行だったが、本当に行って良かった。私のつたない体験ではあるが、まだマレーシアに行った事がない方々や長くなった旅日記にお付き合いいただいた方々には、マレーシアという国について少しは身近に感じていただけただろうか。
旅を終えた今、今度はもう一つのマレーシア領である「北ボルネオ島」と、かってマレーシアだった「シンガポール」に行きたくなっている。(完)