昨日は農園に行き、大根十数本と聖護院大根を5個収穫した。
家から「小型タライ」を折って行き、私の畑傍の水道を出しながら「洗車ブラシ」で洗った。効率良く洗えて満足した。
大根は重かったが、仲間の家に配達した。
大根の葉は短く刻んで、家のコンポストに入れた。来年できる堆肥が楽しみだ。
≪「エスファハーン」観光≫(1)
6日目は「ヤズド」の西北西300kmにある「エスファハーン」の観光だった。
「エスファハーン」はイラン高原で最も大きな川「ザーヤンデ川」の中流に開けた町だ。
「ウィキペデア」で「エスファハーン」の歴史を調べて見た。
1597年に「サファビー朝」の「アッパース大帝」がここを首都と定めた。
それ以来、壮大な都市計画を立てて首都の造営に着手した。
1629年に「アッパース大帝」が死去すると、孫が即位したが、1638年の「第4次オスマン・サファビー戦争」では「イラク」を失った。
1642年「アッパース二世」即位後の、1648年にはムガル帝国から「カンダーハール」を奪還したが、1666年「サフィー二世」が即位すると、急速に国力が弱体化した。
1700年代に入ると周辺民族が反乱を起すようになり、「カンダーハール」の「ホターキー朝」の自治を認めた。
1722年に「エスファハーン」は「カンダハール」の「ホターキー朝」に攻められて惨敗し、専制国家「サファビー朝」は滅亡した。経済面では養蚕、細密画、タイル美術、陶器造りなどが盛んとなり、絹の輸出で潤ったという。
①「スィー・オ・セ橋(33アーチ橋)」
ホテルを8時に出て、町の中央を東西に流れる「ザーヤンデ川」に向かった。
最初の橋は「アッパース一世」の都市計画によって、町を南北に貫く橋として建造され、1602年に完成した長さ300m、幅14mのこの石橋だ。
この橋の上部にはアーチが33ある。車の乗り入れは禁止されているが、400年以上、人の往来に使われている。
この時期の川は干上がっていた。日陰になっている場所にいる少年2人を発見した。
②「ハージュー橋」
「スィー・オ・セ橋」の2km東にある橋で、1666年「アッパース二世」が完成させた。
長さ133m、幅12mで二層構造。上部は王が宴に使ったテラスになっていて、下には水量を調節する水門がある。
北側のたもとに置かれた小さなライオン像には、またがると直ぐに結婚できると伝えられている。私を含めた30~70代と広範囲のツアーの人達は、次々と跨って写真を撮ったが、さて効力はいかに…
③世界遺産「チェヘルソトーン迎賓館(40柱宮殿)」
1647年に「アッパース二世」が建てた柱が多い迎賓館で、一部修復中だった。入り口の柱は実際は20本だが、正面の池に20本が写ると40本になる事から名づけられたと言う。
壁にはめ込まれた木彫り装飾の窓が美しかった。前庭はペルシャ式庭園として2011年世界遺産に登録された。
内部は博物館になっていた。玉座の間は壁一面に壁画で飾られていて、「アッパース一世」「イスマイール一世」「アッパース二世」が活躍した姿が描かれていた。フラッシュ撮影は禁止されていた。
(アッパース一世が、アシュタルハーン朝のヴァリ・モハンマド・ハーンをもてなす宴)
(アッパース二世が、アシュタルハーン朝のナーデル・モハンマド・ハーンをもてなす宴)
家から「小型タライ」を折って行き、私の畑傍の水道を出しながら「洗車ブラシ」で洗った。効率良く洗えて満足した。
大根は重かったが、仲間の家に配達した。
大根の葉は短く刻んで、家のコンポストに入れた。来年できる堆肥が楽しみだ。
≪「エスファハーン」観光≫(1)
6日目は「ヤズド」の西北西300kmにある「エスファハーン」の観光だった。
「エスファハーン」はイラン高原で最も大きな川「ザーヤンデ川」の中流に開けた町だ。
「ウィキペデア」で「エスファハーン」の歴史を調べて見た。
1597年に「サファビー朝」の「アッパース大帝」がここを首都と定めた。
それ以来、壮大な都市計画を立てて首都の造営に着手した。
1629年に「アッパース大帝」が死去すると、孫が即位したが、1638年の「第4次オスマン・サファビー戦争」では「イラク」を失った。
1642年「アッパース二世」即位後の、1648年にはムガル帝国から「カンダーハール」を奪還したが、1666年「サフィー二世」が即位すると、急速に国力が弱体化した。
1700年代に入ると周辺民族が反乱を起すようになり、「カンダーハール」の「ホターキー朝」の自治を認めた。
1722年に「エスファハーン」は「カンダハール」の「ホターキー朝」に攻められて惨敗し、専制国家「サファビー朝」は滅亡した。経済面では養蚕、細密画、タイル美術、陶器造りなどが盛んとなり、絹の輸出で潤ったという。
①「スィー・オ・セ橋(33アーチ橋)」
ホテルを8時に出て、町の中央を東西に流れる「ザーヤンデ川」に向かった。
最初の橋は「アッパース一世」の都市計画によって、町を南北に貫く橋として建造され、1602年に完成した長さ300m、幅14mのこの石橋だ。
この橋の上部にはアーチが33ある。車の乗り入れは禁止されているが、400年以上、人の往来に使われている。
この時期の川は干上がっていた。日陰になっている場所にいる少年2人を発見した。
②「ハージュー橋」
「スィー・オ・セ橋」の2km東にある橋で、1666年「アッパース二世」が完成させた。
長さ133m、幅12mで二層構造。上部は王が宴に使ったテラスになっていて、下には水量を調節する水門がある。
北側のたもとに置かれた小さなライオン像には、またがると直ぐに結婚できると伝えられている。私を含めた30~70代と広範囲のツアーの人達は、次々と跨って写真を撮ったが、さて効力はいかに…
③世界遺産「チェヘルソトーン迎賓館(40柱宮殿)」
1647年に「アッパース二世」が建てた柱が多い迎賓館で、一部修復中だった。入り口の柱は実際は20本だが、正面の池に20本が写ると40本になる事から名づけられたと言う。
壁にはめ込まれた木彫り装飾の窓が美しかった。前庭はペルシャ式庭園として2011年世界遺産に登録された。
内部は博物館になっていた。玉座の間は壁一面に壁画で飾られていて、「アッパース一世」「イスマイール一世」「アッパース二世」が活躍した姿が描かれていた。フラッシュ撮影は禁止されていた。
(アッパース一世が、アシュタルハーン朝のヴァリ・モハンマド・ハーンをもてなす宴)
(アッパース二世が、アシュタルハーン朝のナーデル・モハンマド・ハーンをもてなす宴)