≪「オーストリア」の世界遺産「グラーツ」観光≫
3日目はホテルを8時半に出て、1時間余り、人口25万人の町の世界遺産「グラーツ」旧市街の観光をした。
ガイドブックを見ると「グラーツ」の名は、スラブ語の「砦」を意味する「グラデク」から来ているらしい。
13世紀に「ハプスブルグ家」の「ルドルフ1世」が、それまでのスイスからオーストリアの「ウイーン」に首都を移したため、「グラーツ」は南部の中心都市として栄えた。
15世紀には「フリードリヒ3世」が居城を「グラーツ」と定め、王宮、大聖堂を造った。
その息子「マキシミリアン」は『戦争は他家に任せよ。幸多きオーストリア、汝結婚せよ』といい、欧州各地の名家との婚姻政策を進めて、やがてブルゴーニュ、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ボヘミアを手中に収めた。
大航海時代には、「太陽の沈まぬ国」と言われたが、19世紀、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が滅び、更にプロイセンとの戦争に負けると、「ハプスブルグ家」には「オーストリア」だけが残された。
その後は文化活動を推し進め、ウイーン、グラーツなどの芸術都市を築き上げたという。
現在「グラーツ」は、中世から現代に至る「建築の町」「デザイン都市」としても世界遺産に指定されている。
①旧王宮の二重螺旋階段
15世紀に「フリードリヒ3世」が築いた王宮は現在は州議会場となっていて、この螺旋階段だけが残されているという。昇降時には左右のどちらも使えるが、階が変る所で1つに会う造りで「和解の階段」と言われている。
②「市庁舎」(ラートハウス)
16世紀にルネッサンス様式で建てられ、19世紀後半に新古典主義で改装された豪華な建物だ。前の「ハウプト広場」には「ヨハン大公像」がある。中庭には三層アーチ式の通路があった。「婚礼の間」は結婚式場になっているという。
③「大聖堂」
外観は質素だが、内部は15世紀のフレスコ画が描かれ、天井が高い。イナゴの大発生、戦争、黒死病などが続いたため、それらが無くなる様神に祈る絵もある。17~18世紀に内部がバロック様式に改修されたため、華やになった。
ミサが行われていて、写真は撮るのを遠慮した。
④歴史を残す数々の建物
⑤「ゲマルテスハウス」(兵器庫)
18世紀に「ヨハン・マイヤー」が、外壁にギリシャ神話、ローマ神話を題材としたフレスコ画を描いて飾ったという。傷みやすいフレスコ画が綺麗に残されていた。
「グラーツ」を出発後、「オーストリア」の国境を越えて隣国「ハンガリー」に入った。EU加盟国同士の国境には、EUと国名を表記した立て看板が立っているだけ。初めてこんな国境越えをした人は、チェックが何も無いのに驚いていた。
「ショプロン」の町には2時間半で着いた。