花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(6)

2018年06月16日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪ハンガリーの西端の町「ショプロン」観光≫

「ショプロン」は、「オーストリア」国境から6kmの地点にあり、「オーストリア」側に張り出した人口5万人の西端の町だ。
オスマン帝国の襲撃を逃れたため、旧市街に中世の面影が残っている。
第一次世界大戦の敗北によって「オーストリア」領になる筈だったが、1921年の住民投票の結果、「ハンガリー」領として残ることを選んだ町だ。
ローマ時代から交通の要衝として発展し、ピアノ曲「ハンガリー狂詩曲」などを作曲した「フランツ・リスト」(1811~1886年)の生誕地でもある。「リスト」の曲は音を細かく並べてあって優美なので、私の好きな作曲家だ。
また現在は赤ワインの産地としても名高く、途中の景色には広大なブドウ畑がどこまでも広がっていた。



 
 (リストの像)              (新市街の道路脇に造られている噴水で遊ぶ少女)

①「火の見塔」
1409年にローマ時代の遺跡の上に造られたが、1676年の火災で焼失し、再建された。上部はバロック様式、時計は17世紀から動いている。
下の「忠誠の門」は、ハンガリーへの帰属を記念して造られたものだという。
(下の写真の左端の建物は「シュトルノの家」で、14世紀に建てられたもの。「マーチャーシュ王」も滞在した事があるらしい。右側の建物が「市庁舎」。いずれも中央広場に面している)



         

②「山羊教会」
「ハンガリー」でゴシック建築を代表する協会。13世紀後半、山羊飼いの男が山羊が掘り当てた埋蔵金を教会の建築費用にと寄付したためにこう呼ばれるようになったと言う。


 

教会の前の広場に「三位一体の像」があった。この像の多くは、どの町でもペスト流行の恐怖が収束したことを記念して建造されたものだ。

            

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「オーストリア・ハンガリー・スロバキア3か国の旅」(5)

2018年06月16日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅠ」オーストリア、ハンガリー、スロバキア

≪「ハンガリー」という国≫

「ハンガリー」は、国土を「オーストリア」「スロベニア」「クロアチア」「セルビア」「ルーマニア」「ウクライナ」の6カ国に囲まれ、面積は日本の約1/4の国で、人口は994万人、首都は「ブタペスト」だ。
2004年にEUに加盟したが、通貨は当時の「オルバーン首相」の権限で今も「フォリント」を使っている。

ガイドブックによると、ハンガリー人は、ロシアのウラル山脈の麓に住んでいた「マジャル人」で、遊牧生活をしながら西に移動し、9世紀後半にハンガリーに住み着いたと言われている。アジア系の民族で、髪が黒く瞳も黒い。

歴史をみると、900年代に首長の「アールバード朝」がキリスト教を受け入れ、1000年には「イシュトヴァーン一世」がローマ教皇から王冠を戴き「ハンガリー国王」になった。
当時の「ハンガリー」は「スロバキア」「ルーマニア」「クロアチア」の一部を領土とする大国家だったが、1240年代になると「モンゴル軍」の攻撃を受ける。それ以降、多くの都市に城砦が築かれた。

しかし「ハンガリー」も他国に翻弄され、1526年、「ブダ」とその周辺部がオスマン帝国の直轄領になった。
1683年には「ハプスブルグ家」が「ブダ」を奪還、その後1699年になって「オスマン帝国」は「ハンガリー」から撤退して「ハプスブル家」の支配を受ける。1740年には「マリア・テレジア」がハンガリー女王になった。
1848年以来民族運動が活発化した。
1866年、プロイセン王国との戦争に負け、時の王「フランツ・ヨーゼフ一世」はハンガリー国会を承認し、オーストリアとハンガリーの二重帝国、「オーストリア=ハンガリー帝国」が誕生した。
「フランツ・ヨーゼフ一世」の妻「エリザベート」が1898年にスイスで暗殺され、1914年には甥の大公夫妻が暗殺されると、「セルビア」に宣戦布告をした。やがて、ドイツ、ロシアを巻き込んで第一次世界大戦へと進展していく。

1918年、戦争に敗北して二重帝国は崩壊し、1920年には「ハンガリー王国」が誕生するも、その後「トリアノン条約」で「チェコ」「スロヴァキア」「ルーマニア」などが割譲されて現在の国土になった。

1939年以降の第二次世界大戦では、「日独伊」の三国同盟に加盟したが、1944年ドイツに占領される。しかし翌年、ソ連により開放される。
1949年、ソ連のスターリン型社会主義国家「ハンガリー人民共和国」になる。
1953年スターリンが没すると、大規模な一党独裁政治への反発運動が起きた。この時、ソビエト軍がハンガリーに侵攻し、大勢の死者が出た。
1980年代のゴルバチョフ首相による「ペレストロイカ」で民主化運動が高まり、国名を「ハンガリー共和国」に変えた。

その後1999年、NATOに加盟、2004年にはEUに加盟した。
2012年12月、国名が「ハンガリー」に変った。

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