フランスのルーブル美術館では、日曜日の観覧が無料である事、また、世界的に貴重な美術品の大半が、ロープ一本張られることなく展示されていた事に驚きました。(ただし、何かあれば一斉に全部の扉が自動的に閉鎖される仕掛けになっていました。他の美術館の事情は解りませんでした)
また、凱旋門とエッフェル塔の上に登って、パリの放射状の街作りを確認しました。
フランスの学校事情はガイドの説明で知っただけです。
当時の高校では、教師は生活指導教師と教科指導教師に別れていました。クラス担任は生活指導の責任が済めば帰宅します。
日本と違って学校で部活動はありませんから、教師に指導の負担もありません。部活動は全て、社会教育として別な施設で指導されていました。
ガイドの話では、フランスの文部省は、給料を高くするから全員の教師が、生活指導も教科指導もやって欲しいと教員組合に対して提案したのですが、組合は反対しているそうです。その後どうなったのかは知りませんが、考えさせられる話しでした。
公的な学校の生徒達には日本の様な制服は無く、思い思いの服装と髪型、化粧やピアスも自由な様子で通学していました。ガイドの話では、極端にふさわしくない生徒には注意するとの事でした。
夕方、ある社会教育施設を見学しました。便利の良い町の中心にあるビルの中でしたが、一般人に混じって若い学生らしき人も見えました。当時のパリでは柔道が人気だということでした。私達は、丁度活動していたエアロビクスを見学しました。
パリ郊外のベルサイユ宮殿の見学では、余りに豪華な贅の限りを尽くした建物に、王侯貴族達の生活振りが想像できました。私は、だからやっぱり、必然的に、フランス革命が起きたのだろうと思いました。
革命当時のフランスでは、広大な土地や建物を持っていた貴族や王侯達は納税を免れ、苦しい労働に明け暮れていた多くの農民と商工業者だけに税が課せられていたといいます。その税金も農作物が不作続きでも安くはならなかったのですから。
その夜、夕食を終えてから仲間3人(一人は男性)で、シャンソンを聴きながらお酒が飲める「シャンソニエ」に行く事にしました。そこに行きたいと言い出したのは、シャンソンが好きな私でした。ガイドブックの地図を見ると、昼間行ったノートルダム大聖堂の近くでした。
ある建物にその店の入り口を見つけて入って行くと、階段を下りた地下に案内されたのです。そこは天井がむき出しのコンクリートで、低いドーム状に作られている30㎡位の狭い場所でした。粗末な木製の椅子と机がわずかな数置かれていて、私達は後方の席に案内されました。
ウエイターが来て、壁の落書きを示し、ここはフランス革命の時の牢獄で、落書きは囚われ人が爪でひっかいて残したものだとそれとなく言いました。女性と男性の歌手が歌った何曲かのシャンソンを聞いてから、時計が10時を回ったので出ることにしました。
すると席を立った私達にウエートレスの様な女性が「ちょっとした展示物があるけど見ませんか」と声を掛けて来たのです。
折角来たのだからと、私達が付いて行くと、裸電球で照らされた暗い通路の突き当たりに10㎡位の部屋がありました。そこには裸電球の明かりの下に、革命当時、実際に使われたという色々な武器や道具が並べられていました。ギロチン台の前では「切り落とされた首は、この下の籠にごろんと落ちたのさ」と恐ろしい顔を作り、ゼスチャーをしながら説明します。また、十字軍の遠征時に妻に与えたという鉄製の貞操帯の前では、「ちゃんと合い鍵があったのよ」などと言います。
気分が悪くなったので三人で顔を見合わせて出る事にしました。
その時初めて気づいたのですが、入り口の扉はロックされていて、男の人がその前に立っているのです。すると女性は「金を払わないとここから出さないよ」と低い声で私達に言ったのです。私達はすっかり動揺し、慌ててそれぞれの財布からお金を渡しました。いくら渡したのか思い出そうとしても思い出せないのです。
やっと解放されて地上に出た私達が見たのは、月明かりの下で異様な威圧感を持ったノートルダム大聖堂の姿でした。心臓をどきどきさせながらタクシーを拾い、勇んでホテルに戻りました。
私が初めて、見知らぬ外国で個人の夜間外出の怖さを知った日でした。