穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

41:アップデート要求:実体化の予測不能性

2021-03-21 09:00:10 | 小説みたいなもの

*210417訂正* 

ノロノロと歩を進めていくうちにバス停に出くわした。一人の腰の曲がった老婆がバスを待っている。そうだ、と彼は思った。バスに乗って街中にとにかく出よう。そうして早く三十世紀の見当識を身につけないといけない。『いま、ここ』という三十世紀の感覚を獲得しないといけない。ここでは二十二世紀の見当識は通用しないだろう。

 老婆がバスを待っていることはバスはまもなく来るに違いない。彼は老婆を迂回して彼女の体に触らないように注意しながら、そっと時刻表を見た。そして今何時かな、と腕時計に手を伸ばしたところではたと気が付いた。衣服をはじめ身に着けているものはタイムトラベル中はすべて無化している。時計の表示は読めない。それに読めたとしたところで三十世紀時間が二十二世紀時間と同じとは限らない。実体化したらまず時計合わせをしないとな、と彼は気が付いた。

 老婆は腕時計を見てひとりごとを呟いた。「また、遅れているわね」とぼやいている。もういまにもバスは来そうだ。きたきた、バスはバスだがチンドン屋の車みたいに電飾で飾り立てている。入り口のドアが開いて老婆が手すりにつかまりながら曲がった腰で時間をかけてステップを上る。気が付いて殿下は素早く老婆の背中越しに車内を見通した。混んでいたらパスしようと思ったのである。中は幸いほとんど乗客は乗っていない。彼は老婆に続いて車内に滑り込んだ。上手くいった。運転手も気が付かない。

 空いている座席に座るとほっとして思わずため息が漏れた。乗客の一人が聞きとがめてこちらの空間を凝視している。彼は息を殺した。どうやら乗客の疑念をやり過ごしたようだ。「ところで」と彼は気が付いた。「一体いつ俺は実体化するのだろう。明智先生は現地到着後一、二時間をめどにその前後に徐々に実体化するとか言っていたな。そうするとあとどのくらい余裕があるのかな。女医の真上で意識を回復してから、、と彼は思案した。三十分以上はたっている。いや着地してから大分歩いたから一時間以上にはなるだろう。そうするとあまりバスに乗っているわけにもいかない。いまここで実体化したら大騒ぎになると彼は慌てだした。彼はバスの窓から外を観察した。そろそろ繁華街に入ったようだ。こんど乗客が下りたら、そのあとについて降りようと思ったが、少ない乗客は誰もおりない。おいおい、やばいぜと彼は焦った。

「次は天国公園前です」と車内アナウンスがあった。誰かが降車ボタンを押してランプが付いた。よし、次で降りよう、と彼は身構えた。杖を突いた老人が席を立った。彼はそのあとに続いて閉まりかけたドアに挟まれそうになりながら、バスを脱出した。 

 そこは広大な公園の入り口で少し歩くと正門があり、中に入るとテニスコートなどの運動施設があり、実体化するまで隠れていられそうな場所を探していくと林のようなところがあった。その奥へ入ればどうやら歩道からの視界を遮れそうだ。妙な話で裸になるために身を隠すということはあるが、彼の場合は実体化するために逆に身を隠さなければならないのだ。

 差し渡しが一メートル以上ある樫の巨木の裏側に身をひそめると殿下はおのれの実体化の時を待った。