貴司は夕食後ベルグソンの「物質と記憶」のページを広げた。別に理解したいとも面白いとも思っていない。夕食で食べたものが胃から腸へと送り込まれたころに入眠剤として広げるのである。二、三ページも読むと眠ってしまう。二、三時間するといい具合に転寝から目が覚める。それから皿を洗ったり掃除をしてからテレビを見たり少し物を書くと丁度寝床に入るのに良い時間になる。
そんでもってベルグソン、岩波文庫で訳者は東大の先生の熊野純彦さん。この人はカントの「純粋理性批判」も岩波文庫で訳している。ベルグソンは有名な反カント主義者だが、熊野先生は清濁併せ飲むではないがなんでも訳しちゃう。
ところで何でこんなことを書いているかと言うと、熊野さんの解説の冒頭で夢野久作の上記の詩を引用しているからだ。全文かどうかは夢野作品を読んでいないから分からないが、熊野先生が引用している詩は次の通り。
『胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心が分かって
恐ろしいのか』
夢野久作の長編小説「ドグラ・マグラ」の冒頭にあるらしい。小説の内容とどういう関係にあるかは分からない。だがなにか引っかかるところがあるのだ。熊野純彦先生が引用しているくらいだからね。貴司は胎児の記憶ということに関心があるものだからかもしれない。
各種知覚とその印象が無ければ記憶に残らないわけだから、胎児の知覚と言うか感覚と言うものはあるのだろうか。まず視覚だがこれは排除してもいいだろう。子宮には光が差し込まないわけだから、視覚など無用の長物である。実際誕生後の赤ん坊は目が見えない。相当経ってからでないと目があかない。これは人間より下等で胎児、出産後の成長が早い動物でも同じだ。猫なんかでも生まれてから相当経たないと目があかない。まず視覚は排除だ。
触角はどうだろうか。子宮内でも発達しそうだ。聴覚も体内で機能すると思われる。少なくとも光は必要ない。それに胎教なんのもある。音楽を胎児に聞かせたり、ありがたいお経を聞かせることもあるというし。母親が音声で胎児とコミュニケイションを取るということをする人がいるようである。
味覚はどうかな。胎児の栄養補給方法はどうなっているのだろう。素人の貴司は迷う。なんかチューブみたいなので血管に送り込まれるのかな。前にどこかで、聴覚は妊娠五週間後には発達し始めると聞いたような気がする。