穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ジャリジャリ

2022-11-14 07:04:10 | 小説みたいなもの

 朝五時ごろ、そろそろ膀胱から排尿を促す信号が上がってくる頃だった。大友秀夫は時間を確認しようとした。少なくとも五時前には起きないことにしている。五時前に起きてしまうと晩飯を食べた後ですぐ眠くなってしまう。
 ジャリジャリと耳障りな音がするので不審に思い確かめようとした。五時と言うとまだ暗いから携帯の画面で時刻を確かめる。ベッドの横に手を伸ばしてスマホをまさぐったが掴めない。しょうがないから目を開けて確かめようとした。驚いたのなんのって、天井に張り付いて俺を見下ろしている男がいる。しばらく恐怖で金縛りにあった。
 俺はまた死んだのかと思った。幽体乖離ということが起きると物の本にある。睡眠中に魂が体から抜け出てどこかに行ってしまうという民話は世界各地で民俗学者によって多数収集されている。睡眠中なら朝になれば母艦に戻ってくるようだからまだいいのだが、死んだときにも魂が抜け出て天井にぶつかるらしい。魂は精神だから重量が無い。ふわっと上に昇るらしいのだ。そして天井にぶつかるということらしい。
 えらいことになったと思ってもう一度天井の顔をよく見ると俺じゃない。その男はそのうちに手に持ったシェーバーでジャリジャリと髭を剃りだした。さっきから髭を剃る途中だったらしい。シェーバーを当てていない側の頬はすべすべしている。右側(左側)はさっき剃り終わっていたのだろう。
 秀夫は最初のショックからやや立ち直ると、これは例のサカイさんかもしれないと気が付いた。駅のガード下のスタンドバーで噂を聞いた男かもしれない。映像で入ってくるだけではなくて音でも侵入してくるようになったのか。
 どうにかして、秀夫の視覚に侵入してくる人間の正体を確かめようとしてロケハンを試みていたのだが、彼の顔は秀夫の視覚には入らないから今まで一度もその機会がなかった。髭を剃るので鏡を見ていたのだろう。それでそこに映った彼の顔が秀夫の視覚に入ったということだろう。
 そのうちにジャリジャリする音が聞こえなくなったと思ったら天井の男は手のひらで顔を撫でまわしている。剃り残しが無いか確かめているのだろうか。スリかピアニストのように長い指だった。そのうち男は鏡の前から離れたのだろう。顔は見えなくなった。そのかわりシャワーのノズルが見えた。浴室に入ったらしい。やがて映像は途絶えてしまった。
 年齢は三十台に見えた。神経質そうな表情をしていた。