穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ダダ漏れ(1)

2022-11-27 07:14:55 | 小説みたいなもの

 相手はいきなり回し蹴りを下肢に加えてきた。彼は危うく地下鉄の線路に転落しそうになった。とっさに持っていた傘を思い切り相手の腹部に突き刺した。相手はよろめいて二三歩後ろによろめくと野獣のような唸り声をあげて反撃してきた。ホームには乗客は一人もいない。こうなったらやるしかない。彼は傘を持ち直すと手をあげて襲い掛かってくる相手の空いたわき腹を横に払った。彼は異様なうなり声をあげて向かってくる。厄介なことになりやがったな、と彼は舌打ちした。
 相手は狂人に間違いない。若い、まだ二十歳ぐらいの男である。顔は端正で美男子と言ってもいい。盛り場にいて通行人に因縁をつけて小遣い銭を巻き上げるようなチンピラには見えない。最初に側のベンチに座った時には全く常人に見えた。三人掛けのベンチで彼は相手が来るときに丁度席を立とうとしていて脇の座席に置いた荷物を取り上げて席を離れた。四、五歩離れたあたりで後ろからオイと凄みを利かした声がした。振り返るとその男が血相を変えている。一瞬のうちに凶暴な殺意が表情に現れた。こいつは剣呑だ、と相手にせずにさらに離れると、再び前にも勝る大声でわめきだした。こいつは頭がおかしいな、と相手にせずに階段の裏側まで離れた。
 そうすると、いつの間にかそいつが忍び足で近づいてきたらしい。そしていきなり回し蹴りを加えて来たのである。これは後で考えたことだが、ここで説明したほうがいいと思うので書くが、おそらく相手が席に座ると同時に彼が席を離れたので、相手は自分が嫌われて忌避されたと思い込んだらしい。偶然のタイミングでそういうことはあるし、普通の人間でもそういう瞬間にはチラッとおやと思うことはあるが、それで発狂したように相手に回し蹴りを加えることは無い。
 さて、話の続き、ホームは無人である。誰も駆けつけてこない。駅には監視カメラがあるはずだから駅員はホームの異常は分かるはずだが、駅員が駆けつけてくる気配もない。しばらくやりあっていたが、傘を持っている相手には不利だと考え出したらしい。彼は剣道二段の免許を持っている。傘でも結構有効な道具になる。駅員はどうしたんだ、と思っているところへ彼よりも若い小男が異変に気が付いて駆けつけてきた。いきなりその狂人を後ろから羽交い絞めにした。狂人よりはるかに小柄で身長は彼より頭一つ低く体格も貧弱である。その助っ人は狂人の耳元に何やら囁いた。そうすると今までの狂乱ぶりが嘘のように相手はおとなしくなってしまった。
 以下は危機を脱してから彼が行った推測である。此の狂人はやはり精神病患者で止めに入った男は病院の看護付き添い人なのだろう。何かに理由で外出か帰宅を許されてその付き添いの監視のもとに帰宅?途中だったのだろう。丁度発作が起こった時に付き添いはトイレに出も言っていたのかもしれない。