「どうして彼だったとわかるの」
「俺の知覚に割り込んでくるやつはそういないだろう。あいつに決まってる」
彼女は注意深く紅茶を一口啜った。「だけどどうして顔が入ってきたんだろう。新しいフェーズだね」と語呂合わせのように不審げに呟いた。
「フュア・ジッヒだよ」
「何それ」
「つまり自分の顔が自分に折れかえって自分の視野に入ってきたんだよ。ヘーゲル流に言えば対自だな」
「また分からないと思って無学な私を馬鹿にするのね。ちゃんとわかる言葉で説明してよ」
「最初はいきなりジャリジャリという音が耳に入ってきたんだ、寝ているときにね。ネズミが天井裏をはい回っているのかと驚いて目を開けると天井にあいつが貼りついていた。第一安普請のマンションだって天井裏なんてないものな。
驚いたのなんのって。最初は俺の顔だと思ったわけ、どうして俺の複製が天井から見下ろしているんだろうと肝をつぶした。しかし落ち着いてよく見ると俺じゃないんだ。そうするとあいつに決まっている。そのうちに視線の焦点が合ってくるとそれは鏡像なんだな」
「なによ、キョウゾウって」
「鏡に映っているんだ。ジャリジャリと言う音は髭を剃っている音で、鏡を見ながら剃っている。その姿が彼の視覚に入っているんだ」
「へえ、ややこしいこと」
「それでどんな顔をしていたの」
「さあ、三十代の男だったね。勤め人風だね。神経質そうな青白い顔色だった。顔を撫でまわしていたけどすごく指が長かったな」
「へえー」とびっくりしたように言うと彼女はしばらく沈黙した。
我に返ったように彼に聞いた。「それで住んでいる所は分かったの」
「分からない」
「相変わらずロケーションハンティングは続けているの」彼女は紅茶カップの底をのぞき込んだ。
「いや、全然。それに考えてみるとマンション群のなかに取り残されている昔風の家屋は都内でも結構沢山残っているんだ。友人でさ、不動産会社の調査をしている友人に相談してみたんだが、そういう資料はもともとないらしいんだが、断片的な情報でも都心にいくらでもあるというんだよ」
「それで萎えてしまったのね」
「そう、それに俺の育った家もそんなところだったからな」と彼は思い出すように言った。