◆エドワード・ジョン・スミス(1850年1月27日~1912年4月15日=満62歳)は、あの豪華客船タイタニックの船長だった。約1500人が命を落とした。スミスもまた亡くなった者の一人であった。タイタニックは4月14日午後11時40分、北大西洋で氷山に衝突し、翌日の2時23分まで沈まなかった。沈没の10分前にあたる午前2時13分にスミスがブリッジに入っていった。その直後に窓が割れて船内の大階段に向けて吸い込まれていき、スミスは、船と運命をともにした。英国スタッフォードシャーのリッチフィールドには、彼の像が建てられている。
船長は、船内で絶大の権限を握る最高責任者である。客船の場合は、乗員乗客の生命身体に関して全責任を負い、いざというときは、船と運命を共にする。これが「シーマンシップ」というものである。船長に限らず、航空機の機長、電車の機関士、バスの運転手ねタクシーの運転手などもみな、乗員乗客に全責任を持つ。
あれから100年。1月13日夜、イタリア・地中海で豪華客船コスタ・コンコルディア(乗客乗員約4200人)が座礁し、死者・行方不明者を出した。ところが、スケッティーノ船長(52)は事故後、乗員乗客を見捨てて、真っ先に船から逃げ出していたため、業務上過失致死の疑いで逮捕された。そればかりか、国外へ逃亡を図ろうとしていたことまで判明してきている。本当にとんでもない船長だ。
◆大日本帝国海軍の軍人の場合、責任感は、もっと強かった。海上自衛隊幹部候補生学校の各自習室の正面に飾られている「3軍神」の1人、潜水艇の佐久間勉艇長は、訓練中、艇が浮上しないという事故に陥り、艇内の空気が希薄になるなか、乗組員全員配置ついたまま死亡した。だが、最後まで浮上の努力を続けていた。私は自著「愛する者へ遺した最期の言葉」のなかで、これを以下のように紹介した。
(佐久間勉艇長※画像は
ウィキペディアより)
「我部下ノ遺族ヲシテ 窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
佐久間勉艇長
潜水艇沈没事故
広島県呉市の海上自衛隊総監部の近くに『長官山』と呼ばれる小高い山がある。戦前、ここは海軍呉鎮守府の長官の官舎があった。戦後、占領軍の司令官が宿舎にして使っていた。現在は「記念館」になっている。海軍呉鎮守府以来の歴代長官の写真や遺品などのほか、海軍にまつわる資料などを陳列している。
このなかに、『佐久間勉艇長の遺書』がある。
呉市から瀬戸内海を隔てて、向こうの島が江田島である。その島の反対側に海軍兵学校があった。いまは、海上自衛隊の幹部候補生学校と第一術科学校がある。海軍兵学校の赤レンガの建物は、現在、幹部候補生学校がそのまま使っている。
各分隊ごとに自習室がわかれているが、どの自習室にも正面の壁の上方に、三人の軍神の写真が飾られている。日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させた連合艦隊司令長官の東郷平八郎、広瀬武夫中佐、それに佐久間勉艇長である。
佐久間艇長は、明治四三年四月一五日、山口県・新港沖の広島湾で母艦歴山丸を離れて潜水訓練中に、部下一三人とともに遭難した。潜水艇が沈没したのである。
潜水艇は、後に引き揚げられた。艇のなかで、佐久間艇長以下、乗組員全員が持場を離れることなく、任務遂行の姿で絶命していた。海軍は、佐久間艇長を海軍軍人の鑑とした。
佐久間艇長は、艇内の酸素がなくなり、次第に呼吸が困難になるなかで沈着に部下を指揮して、任務遂行に当たった。最後まで遭難からの脱出を試みたのである。事故の顛末を詳細に記録して、潜水艇研究の発展に役立てるための壮烈な遺書を書き残して、ついに絶命した。
この遺書の文字は、最初のころはしっかりと力強く書かれている。それがだんだんと大きく、力が抜けるようになっていく。万年筆を持つ手が動かなくなるまで懸命に書き続けていた様子がうかがわれる。そのことは、終りから三行目の『セシ』や『ガソリン』に余分な『シ』や『ソ』が書かれていることからもわかる。
(佐久間艇長遺言※画像は
ウィキペディアより)
佐久間艇長遺言
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艦ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠二申訳無シ サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ、我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃モレシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂フルニアリ、希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ、サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ、
沈没原因
瓦素林潜航ノ際、過度深入セシ為メ『スルイス・バブル』ヲ締メントセシモ、途中『チエン』キレ依ッテ手ニテ之ヲシメタルモ後レ後部二満水(セリ)約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ、
沈据後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタル為メ電燈消エ、悪瓦斯ヲ発生呼吸困難ヲ感ゼリ、十四日午前十時頃沈没ス、此ノ悪瓦斯ノ下二手動ポンプニテ排水ニ力ム、
一、沈下ト共ニ『メンタンク』ヲ排水セリ、燈消エ、ゲーヂ見エザレドモ『メンタンク』ハ排水シ終レルモノト認ム、電流ハ全ク使用スル能ハズ、電液ハ溢ルモ少々、海水ハ入ラズ、「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五〇〇磅位ナリ、唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ、「ツムリ」ハ安全ノ為メヨビ浮量六〇〇(モーターノトキハ二○○位)トセリ、
(右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)
溢入ノ水二溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ、余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ、細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ、世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン、サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス、
一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ、排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ、此ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン、
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス、カゝルトキニ困ル故、幸ニ本艇員ハ皆ヨク其ヲ尽セリ、満足ニ思フ、我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス、サレバ遺言状ハ既二『カラサキ』引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ 田口浅見兄ヨ之レヲ愚父二致タサレヨ)
公遺言
謹ンデ陛下二白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ、我ガ念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ、
左ノ諸君ニ宜敷(順不順)
一、斉藤大臣、一、島村中将、一、藤井中将、一、名和少将、一、山下少将、一、成田少将、一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラルゝ如キ感アリ)
一、小栗大佐、一、井手大佐、一、松村中佐(純一)、一、松村大佐(龍)、一、松村少佐(菊)(小生ノ兄ナリ)、一、船越大佐、一、成田鋼太郎先生、一、生田小金次先生、
十二時三十分呼吸非常ニクルシイ
瓦斯林ヲブローアウトセシシ積リナレドモ、ガソソリンニヨウタ
一、中野大佐、
十二時四十分ナリ
ちなみに、佐久間艇長は、明治二一年九月一三日、滋賀県三方郡前川村(現在・福井県三方郡三方町)の前川神社神職・佐久間可盛・まつの二男として生まれた。明治三四年に海軍兵学校(二九期)を卒業、日露戦争では軍艦吾妻に乗り組み、従軍した。明治四一年一一月、第一潜水艇隊長となり、翌年一二月、第六潜水艇に転乗し、遭難した。絶命したとき、三二歳だった」
◆戦艦大和五代目艦長・有賀幸作大佐は1944年11月、水雷学校教頭から戦艦大和最後の艦長となった。第二艦隊参謀長となった森下信衛少将の後任である。明治30年、長野県上伊那郡朝日村字平出に生まれ、兵学校を卒業後、水雷専門の道を歩み、第四駆逐隊司令時代に開戦をむかえた。1945年、海上特攻隊として「第一遊撃部隊は海上特攻隊として八日黎明沖縄島に突入を目途とし、急速出撃準備を完成すべし」の命令を受けた。
戦艦大和は4月6日、矢矧、冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞とともに、「一億総特攻のさきがけ」として沖縄に出撃した。4月7日、敵機の来襲にさらされた大和は、艦の傾斜が20度以上となり、もはや復元は不可能となる。吉田満著の「戦艦大和ノ最期」は、有賀幸作艦長は「身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス」と書かれている。
だが、実際には「有賀艦長は羅針儀をぐっと握ったままであった」らしく、大和沈没後、有賀幸作艦長が海を泳いでいる姿が目撃され、「艦長、艦長が生きとる」という声を聞いて、自ら海中へと姿を消していったとも言われている。総員退去命令の後、大和沈没を見届けて、自ら責任を取る形で水没したものと見られる。戦死後、中将に2階級特進している。
平成24年2月17日(金)第2回板垣英憲『勉強会』開催のご案内本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
野田佳彦首相は衆院議員定数の削減に取り組み、小沢一郎元代表は「民主党を割らず」に、任期満了まで選挙運動に専念の構え ◆〔特別情報①〕野田佳彦首相が1月18日、衆議院の議員定数削減に本格的に乗り出した。衆議院議員の定数は「480」である。これを削減する。
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