産経新聞 1月26日(木)14時47分配信
京都・一條戻橋。平安時代の陰陽師「安倍晴明公」をお祀りする神社。魔除け、厄除けに ご利益がある。境内に社紋である五芒星がいたるところに施されている。
安倍晴明
安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日[1]〈921年2月21日〉 - 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。『晴明』を『せいめい』と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。
史実上の人物像
出自
晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)[2]あるいは淡路守・安倍春材[3]の子とされる。
各種史書では竹取物語にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする[2][3]。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話[4]、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。
経歴
921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。
948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)当時天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。その後、天文博士に任ぜられる。
979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。 このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。
陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた[5]。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。
伝承の人物像
平安時代では、最先端の学問(呪術・科学)であった「天文道」や占いなどを、体系としてまとめた思想としての陰陽道に関して、卓越した知識を持った陰陽師ともいわれ、当時の朝廷や貴族たちの信頼を受け、その事跡は神秘化されて数多くの伝説的逸話を生んでいった。蘆屋道満に代表される道摩法師とはライバル関係にあった。
後世に陰陽道の経典となる秘伝書『簠簋内伝』(ほきないでん、別名『金烏玉兎集』)の著者に仮託されている。実際の晴明の著作としては土御門家に伝わった占事略决がある。
奉祀
安倍晴明を祀る神社は、屋敷跡に建てられたという一条戻橋近くの晴明神社や、生誕地の大阪市阿倍野区に建てられたとされる安倍晴明神社、東国では数少ない晴明ゆかりの社立石熊野神社など全国各地に存在する。
後世の陰陽師が、晴明にあやかろうと信仰したため、日本各地に晴明塚といわれる塚を建立し、祀った。
安倍晴明が登場する作品
平安・中世文学
晴明が死んだ11世紀の内に、早くも晴明は神秘化されていった。歴史物語の『大鏡』や説話集の『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄』はいくつかの晴明に関する神秘的な逸話を載せる。
『大鏡』
『今昔物語』
- 『安部晴明随忠行習道語』
- 『播磨国陰陽師智徳法師語』
- 播磨国の陰陽師、智徳法師が方術で海賊を捕らえた物語だが、末尾に「智徳はこれほど優れた陰陽師でありながら晴明にはかなわなかった」と記されているので、前の物語に登場した播磨の陰陽師は彼のことだとわかる。
『宇治拾遺物語』
- 『晴明蔵人少将封ずる事』
- 晴明がある時、カラスに糞をかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神であることを見破り、少将の呪いを解いてやった。
- 『御堂関白の御犬晴明等奇特の事』
- 藤原道長が可愛がっていた犬が、ある時主人の外出を止めようとした。驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出して捕らえた。十訓抄にも同様の記述あり。
『平家物語』
近世
- 人形浄瑠璃・歌舞伎 『蘆屋道満大内鑑』 (通称「葛の葉」)
- 『蘆屋道満大内鑑』を始めとして、葛の葉伝承を題材とする作品には、多くの場合安倍晴明が登場する。
- 『蘆屋道満大内鑑』では、晴明は父、安倍保名と母、葛葉明神の化身である白狐との間に生まれた子供とされている。また晴明は最終的には清浄を意味する「清明」への改名を帝に願い出て聞き届けられている。
- なお、大阪府和泉市を通る熊野街道沿いに母親の葛の葉を祀る信太森葛葉稲荷神社、白狐の化石を祀る舊府(ふるふ)神社、安倍保名と葛の葉が出会った「ネズミ坂」がある聖神社が鎮座している。
- 葛の葉を題材とする作品を参照。
脚注
- ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年、369頁。また卒年85歳(「安倍氏系図」(『続群書類従』巻第170 所収)による)とも一致する。
- ^ a b 「安倍氏系図」(『続群書類従』巻第170 所収)、『尊卑分脈』、『諸家知譜拙記』
- ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻5,安倍(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)
- ^ 江戸時代に成立した説話「安倍仲丸転生記」(著者不祥)および講談本「神道講釈安倍晴明」(旭堂南陵の口演を速記したもの)。
- ^ これは当時の陰陽師の最高位が七位であったことから、晴明を六位以上に昇進させるための措置であったとも考えられる