@S[アットエス] 2月17日(日)16時30分配信
『 浜松市中区のJR東海浜松工場敷地内で見つかった不発弾の爆破処理が17日午後、同市南区新橋町の遠州灘海岸に掘った処分壕で行われた。実際に爆発したかどうかなど、陸上自衛隊が確認作業を進めている。
同工場から海岸への移送作業に伴い、一部区間が避難区域に含まれた東海道新幹線は同日午前、浜松―豊橋間で一時運転を見合わせ、上下線計32本が最大で約1時間遅れた。約1万4千人に影響が出た。東海道線は浜松―舞阪間で上下7本が区間運休した。主要道路も国道1号や257号などが一時通行止めとなった。
移送作業は同日午前8時半ごろ開始。陸上自衛隊の処理隊が不発弾を車両に載せ、工場から約4キロ先の遠州灘の海岸まで運んだ。市は運搬経路に近い約3800世帯(約1万人)に避難指示を出した。 不発弾は昨年10月に見つかり、太平洋戦争当時の米軍の艦砲弾とみられる。』
浜松市中区のJR東海浜松工場敷地内で見つかった不発弾は、1945年7月29日のアメリカ海軍の軍艦による艦砲射撃の忘れ物、歴史的な証言物では有りませんか。艦砲射撃の目標は国鉄浜松工機部・浜松駅・日本楽器・東洋紡績など。死者約170名。と浜松空襲出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)下記転載に』に掲載されています。
浜松空襲
浜松空襲(はままつくうしゅう)とは、第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、浜松およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の通称。
浜松とその近郊は、その都市規模に比して多数回の空襲を受けた。その理由として、
- 軍施設が数多くあった。(陸軍飛行場、陸軍飛行第7連隊、浜松陸軍飛行学校、三方原教導飛行団など)
- 軍需工場が数多くあった。(日本楽器、中島飛行機、鈴木織機など)
- 東海道の要に当たり、また、国鉄浜松工機部があった。
- 東京・名古屋への空襲の際の侵入ルートに当たっていた。空襲後、基地に帰る部隊は残った爆弾を浜松に捨てて帰るように命じられていた。
第21爆撃機集団による対日都市攻撃被害報告によると、当時の浜松の人口は166,346人。計560機により3,076トンの爆弾を投下したとある。これは横浜市よりも多い機数で多くの爆弾を投下したことになる。
空襲の経緯
- 1944年11月27日、東京湾岸地域に空襲のついでに浜松を爆撃。
- 1945年2月15日、B-29の54機が三菱重工業名古屋発動機製作所の空襲のついでに南部(海老塚地区)に空襲。浜松基地にも空襲。B-29が6機。死者約150名。
- 1945年4月30日、浜松都市地域を第一目標とした、中心部(軍需工場の多かった寺島・龍禅寺地区)への空襲。B-29が69機。死者約1,000名。
- 1945年5月19日、東部・西北部に空襲。死者約450名。
- 1945年6月18日、浜松都市地域を第一目標とした、市街地への空襲(浜松大空襲)。死者約1,800人。
- 1945年7月29日、艦砲射撃。目標は国鉄浜松工機部・浜松駅・日本楽器・東洋紡績など。死者約170名。
その他
- 四十数本植えてあったプラタナスのうち、三本が残り、のちに市民の木となる。
関連項目
浜松陸軍飛行学校
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浜松陸軍飛行学校(はままつりくぐんひこうがっこう)とは、かつて浜松市にあった大日本帝国陸軍の教育機関。
概要
1933年(昭和8年)に陸軍航空本部長隷下学校として浜松の地に開校された(浜松陸軍飛行学校令、昭和8年8月1日軍令第10号)。
所在地
教育要綱
- 教育対象
- 航空兵科現役下士官・幹部候補生・下士官候補者
- 教育区分
- 操縦生徒
- :航空兵科現役下士官たることを志願して召募試験に合格した者(1937年10月からは東京陸軍航空学校卒業生)
- 戦術学生
- 飛行機操縦に従事すべき航空兵科幹部候補生及び下士官候補者
- 戦術学生
学校沿革
- 1933年(昭和8年)立川から移駐した飛行第7連隊練習部を基幹として、陸軍航空本部長の隷下学校として独立
- 1935年(昭和10年)戦術学生を設置
- 1938年(昭和13年)陸軍航空総監部の設置に伴い航空総監隷下学校へ移行
- 1944年(昭和19年)浜松教導飛行師団に改編
歴代校長
- 値賀忠治 大佐:1933年8月1日 -
- 佐野光信 少将:1935年8月1日 -
- 牧野正迪 中将:1937年8月2日 - 1938年6月1日
- 増野周万 少将:1938年7月15日 -
- 寺本熊市 少将:1939年8月1日 -
- 儀峨徹二 中将:1940年8月1日 -
- 須藤栄之助 少将:1941年10月15日 -
- 山本健児 少将:1943年1月29日 -
- 川上清志 少将:1944年6月10日 -
- 星駒太郎 少将:1944年11月27日 - 1945年8月6日
組織
- 教育部
- 本校
- 分校
- 鉾田分教所→鉾田陸軍飛行学校として独立
- 研究部