THE PAGE 7月3日(木)20時13分配信『多くの買い物客らでにぎわう東京・新宿で6月29日、1人の男性が衆人環視の中、自らの身体に火を放って自殺を試みる事件が起きた。この様子は、現場にいた人々が撮影してネットに投稿され、大きな話題となった。しかし、大手新聞社やテレビ局では、それほど大きく報じられなかった。この男性の行為は、安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認に反対したものといわれるが、なぜ新聞やテレビではあまり報道されなかったのだろうか?
今回の事件は、JR新宿駅南口近くの歩道橋で発生。報道によると、中年の男性が、拡声器で集団的自衛権や安倍首相に関する主張を1時間ほど述べた後、ガソリンのような液体をかぶり、火をつけたという。
ネットでは現場の生々しい写真や映像が出回り、大きな反響を呼んだ。しかし、ネットでの衝撃とは裏腹に、翌日の月曜日の新聞では、読売、朝日、毎日、産経はいずれも社会面の小さなベタ記事扱い。写真もなく、よほど注意して見ないと記事に気づけない。テレビ民放各局も、1分弱の単発ニュースで淡々と報じただけ。NHKではニュースにもならなかった。
一方で、アメリカのCNN、フランスのAFP通信、イギリスBBCなど外国メディアは、東京発のニュースとしてこぞってこのニュースを報じた。平和主義を掲げる日本の憲法9条と集団的自衛権の問題を説明するなどし、「焼身自殺による抗議は、日本では非常にまれ」と、驚きをもって伝えている。
外国メディアが報じるほどなのに、国内メディアの報道が淡白なことに対して、ネットでは「言論統制か」「何かの圧力?」「おかしいじゃないか」といった声も上がっている。
なぜ、今回の報道は抑制的だったのか?自殺の報道を巡っては、「報道すれば、それが模倣の自殺を生む」という指摘が以前からあった。世界保健機関(WHO)は「自殺予防 メディア関係者のための手引き」を発行している。その中では、1774年にゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」が出版されてから、主人公に影響を受けた自殺がヨーロッパ中で相次いだことなどを紹介。』
ティック・クアン・ドック氏か゜、1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺し世界にテレビ放映された出来ことを思い出しました。、「報道すれば、それが模倣の自殺を生む」という指摘が以前からあった。世界保健機関(WHO)は「自殺予防 メディア関係者のための手引き」を発行している。その中では、1774年にゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」が出版されてから、主人公に影響を受けた自殺がヨーロッパ中で相次いだことなどを紹介しても、今日と時も政治形態も違います。、自分の信念と自分の主張を社会や世界に示す目的を持って焼身自殺したのです。今後勇気のいる焼身自殺した人柱のような人の真似をしたりする人間が、増えるとは思えません。キリスト文明の世界で育つた西洋人には、東洋人の心は日本に来てもなかなか理解出来ないと思います。イスラム教徒の聖戦士論とどこか共時性が有るのではと考えもします。国家
権力による大衆操作により、大手メディアが報道規制に走ったのか。インターネットが、全世界に普及している今日、テレビ局や大手新聞社が報道しなくても事実は、瞬時にインターネットで全世界に知れ渡る時代です。テレビ局や大手新聞社の時代も一歩、一歩斜陽化し゜終焉に近づいていると言えます。マスコミ人として、真実や矛盾に目を瞑ることなく国民に真実の報道をする責務が有ります。大東亜戦争の戦争責任は、判断を誤った軍部責任で敗戦国になった日本と言われていますが、戦前のマスコミ、大手新聞社の戦争責任も当然有ると思います。今も昔も負けるような戦争は、日本は、二度としてはいけないと言うことです。最近は、ミリタントな報道内容や報道姿勢も多くなり、日本をいつか来た道の戦争に再び巻き込もうと盛んに揚げ足を取る大手新聞社も有り、国民は、再び日本が戦争に巻き込まれ、日本国が滅ばないようにしっかり真実を見据え、直視して行く必要に迫られています。
ティック・クアン・ドック(ベトナム語: Thích Qu?ng Đ?c, 漢字: 釋廣德、1897年 - 1963年6月11日)は、ベトナムの僧侶である。
生涯
1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。
彼は支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿がカメラを通じて世界中に放映され、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな影響を与えることとなった。
ジエムの弟にして秘密警察長官であったゴ・ディン・ヌーの妻のマダム・ヌーは、アメリカのテレビインタビューでこの事件を「あんなのは単なる人間バーベキューよ」と発言して顰蹙を買い、国民のジエム政権への反発をいっそう高めた。11月にはクーデターが発生し、ジエムおよびヌーは決起部隊に殺害されたが、マダム・ヌーは生き延びた。
リチャード・ニクソンは著作で、この事件を共産主義者のプロパガンダの一環に過ぎないと主張した。アメリカ人ジャーナリストのマルコム・ブラウンが撮影した報道写真は、1963年度の世界報道写真コンテストでグランプリを受賞した。
その他
アメリカのロックバンド・レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのデビュー・アルバム『レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン』のジャケットには、この焼身自殺事件の写真が使われている。
松岡正剛千夜千冊第568夜
2002年06月27日より引用
坂井三郎
大空のサムライ|上・下
光人社 1967 講談社α文庫 2001
ISBN:4769820011
京都市中京区姉小路東洞院。赤レンガの日銀支店の裏。初音中学校。各学年3クラス。職員室や音楽室のある棟は木造だった。小さかった。
これがぼくの中学校である。ここに赤井先生という数学の先生がいた。胡麻塩アタマで、ユーモアもあるが短気で怖いカミナリ先生でもあった。
しかし数学の教え方がユニークで、初音中学校からはソロバン大会や暗算大会ではいつもトップ入賞者が出ていた。ぼくもこの先生にはぞっこんで、すぐに数学に夢中になった。2年になるとクラス替えがあり、赤井先生が担任になった。
そこで、もっと数学をベンキョーしてみたいなどという大それたことを言ったのだとおもうのだが、すかさず「はい、それならそうしなさい」「ただし、担任のワシが教えるわけにはいかないから、友人を紹介する」と先生は言い出して、こちらの事情などまったく無視して、ある数学教室に推薦されてしまった。
おかげで、このおもしろくもない北大路河原町あたりの数学教室に1年以上も通うことになったのだが、以上の話は本書と何の関係もない。
実はその赤井先生が坂井三郎の大ファンだったのである。
なにしろ授業の途中で10回以上も坂井三郎の名が出てきた。数学とは何の関係もない。ところが、これがものすごく記憶に残った。まあ、中学生が10回も一人の人物の話を聞かされれば、誰だって記憶に残る。
坂井三郎はな、飛行機乗りやった。ゼロ戦に乗ってたんや。ゼロ戦ちゅうのはそのころで一番速い戦闘機や。しかも坂井三郎は敵も味方も褒め称えた天下の撃墜王や。百発百中。しかし戦闘機に乗るには眼がよくならなあかん。そのため、坂井はいつも飛んでるハエを箸でつかむ練習をした。これは、むかし宮本武蔵がやった練習やな。どや、すごいやろ。
こんな話をしょっちゅう聞かされた。
いったいなぜこんな話をしてくれたのかはわからなかった。またゼロ戦に乗ることがどんなにステータスのあることなのかということも、まったくわからなかった。ただ、坂井三郎という天才的な飛行機乗りがいて、異様な訓練をしつづけ、その後日本が世界に誇る撃墜王になったということだけが印象に残っていた。
その坂井三郎のことにもう一度出会うとは思っていなかった。ぼくが25歳のときである。そのころ初めてアパート暮らしをはじめたのだが、その三軒茶屋近くの三宿のアパート「三徳荘」の二つ隣りに古ぼけた床屋があって、そこでぼくは『遊』を創刊するにあたってすっぱり坊主頭になった。そうしたら、床屋のオヤジの栗原清司に大いに気にいられ、稲垣足穂の『ライト兄弟に始まる』の話をしたら、飛び上がるように抱きつかれた。
ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!
コメント