山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

株式会社という憂鬱

2023-05-19 02:07:06 | 読書

 小さな場末の都会で喫茶店を始めたという著者。その深さと自由に感銘する。平川克美『株式会社の世界史』(東洋経済新報社、2020.11)をなんとか読み終える。サブタイトルの《「病理」と「戦争」の500年》というところに株式会社の危うい本質が見え隠れする。

    株式会社のルーツは、一般的に1600年ころから設立された「東インド会社」からだと言われている。東インド会社は、軍隊保有・条約締結権・植民地支配の特権を独自に持つ国家公認のカンパニーだった。

          

 当時は、ヨーロッパ諸国の「大航海時代」であり、新大陸やインド航路の発見で領土・金銀・香辛料・奴隷への欲求が飛躍的に拡大されたという背景がある。それを遂行するには多大なリスクが伴う。そこで資金の持続的な調達のために株式を発行して外部から資金を集めることとなる。それまではローカルな商業活動だったが、ここから地球をグローバルに収奪する資本主義が開花していく。それは同時に、国家同士の戦争へと発展し帝国主義への先兵にもなった。

          

 著者は株式会社500年を概観して、東インド会社台頭の時代を「さなぎの時代」、市民革命の影響で堕落と醜聞の温床とされた株式会社が勅許制にもなった「幼虫の時代」、産業革命によって資金調達が切実になった「成虫の時代」、そして現在の金融資本が跋扈する「妖怪の時代」と、大まかに特徴づけた。

          

 株式会社の歴史から、著者が一貫してこだわり続けている論旨は、「人間は経済的な発展によって必ずしも、幸福にはなれていないということ」だった。「成長なくして日本の未来はなし」という凶弾に倒れた元総理の言葉の欺瞞をつく。が、「会社の病は生得のものであり、これがなければ、そもそも会社というものが成り立たない」と明言し、株式会社の存在そのものは否定していない。実際、著者もいくつかの会社を経営してきている。

           

 そして、「人間が生きていくということは、必ずしも欲望を満足させるためだけではない。年齢とともに、欲望は小さくなり、活動の幅も小さくなって、…静かな晩年を迎えるのが生きるものの節理である」と喝破している。欲望をいかに逓減していくかということ。

            (画像はwww.pinterest.jpから)

 水戸黄門が龍安寺に寄進したという「つくばい」を修学旅行でたまたま発見し、この「吾唯足るを知る」という言葉に感銘したことを想い出した。日本の心にはこうした心情もまだ絶滅危惧種としてスレスレに残っている。本場中国で深められたこうした老子などの基本思想が日本に大きく影響したが、今の中国にこそ必須のアイテムなのだが。いや、世界が今こそ学ぶべき謙虚さがつくばいに込められている。G7広島サミットでその先陣を日本は発揮するときなのだが。

 

 

                                                                 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

始皇帝以来の皇統を破った男

2023-02-22 22:14:27 | 読書

 このところ、現在では目立たないが戦前で活躍したキーパーソンに注目してきた。今回は、「国父」と呼ばれた『百年先を見た男-孫文』(新人物往来社、2011.5)を読む。著者は朝日新聞の記者だった田所竹彦。孫文の遺言が表紙に出ている。「革命はいまだ成功していない。あとを頼むぞ。」というわけだが、確かにそれは現在も成功していない。

    (ナガジンwebから)

 孫文が起こした「辛亥革命」は、始皇帝以来続いた数千年にわたる中国の皇帝支配を一時的にせよストップさせたことに歴史的意味があることに気づいた。しかし、孫文が提唱した「三民主義」は実現しているとは思えない。異民族支配からの独立の「民族主義」、主権が君主ではなく国民とする「民権主義」、地主・資本家の独占支配を打破する「民生主義」。残念ながら日本は孫文死後も植民地支配を侵した。

              (画像はasahi.comから)    

 本書は、人物論、孫文思想、日本人との交友、の三分野にわけて展開している。やはり、関心があったのは、辛亥革命を推進していく前線基地は日本だったことだ。したがって、犬養毅・内田良平・頭山満・梅屋庄吉など多くの日本人が支援している。とりわけ、宮崎滔天(トウテン)は生活苦にあえぎながらも終生孫文を支援した。そのことで、彼の家族は中国にたびたび国賓として招待されている。

 滔天というと何となく、内田・頭山ら国家主義者と同じ仲間のように思っていたが、純粋に孫文のアジア主義を応援しているのがわかった。彼の欧米の植民地支配からアジアを守るという信念は本物だった。日本の大東亜共栄圏構想は結局のところ利権を獲得するところにあった。

 また、資金援助を惜しまなかった梅屋庄吉は、孫文と宋慶齢の結婚披露宴をも引き受けている。また、田岡嶺雲もそうだったが、うずもれた英傑がまだまだいる。それを積極的に掘り起こさないマスコミの責任も大きい。

                 (画像は南方熊楠顕彰館から)

 孫文と南方熊楠とがイギリスで交友を深めたというエピソードも意外だった。医師でもあり理工系にも強い孫文も博覧強記な知識を持つ熊楠とがかなり話し込んだようすが描かれている。

   表題にあるように、「百年先を見た男」と題した理由について著者は、孫文は階級闘争至上主義を危惧し、中国伝統思想の調和を重んじた平和路線の改革開放の道を模索していたからだという。毛沢東と周恩来との暗闘も読み応えあった。欲を言えば、国家主義者・右翼の人との交友や大企業・軍部との交渉も展開してもらえたら、より総合的に孫文が見えてくる。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生存の根拠を問い直す「火だるま」な生涯

2023-02-15 21:35:04 | 読書

 先月、山田風太郎の『魔群の通過』を読んで、水戸天狗党の実態を知る。戦前、その天狗党を「斬られの仙太」として作品化していたのが三好十郎だった。日本が国際連盟を脱退し、満州国や軍事体制がピークを迎えたころだ。その作品は、戦後、仲代達矢主演の映画(1969年、山本薩夫監督)にもなり、一昨年の2021年、平成生まれの気鋭の演出家・上村聡史が新国立劇場で上演するなど、それは三好十郎の代表作とも言われた。そこで、三好十郎とはどういう人物なのかを知りたくなり、片島紀男『悲しい火だるま、評伝・三好十郎』(NHK出版、2003.6)を読む。

           

 十郎は、事実上親に捨てられ、貧困と孤独に追い詰められ、自殺未遂・飢餓など辛酸をなめる。そこから、左派の階級闘争へとはけ口を向けたが、その指導者への違和感が十郎を襲う。「斬られの仙太」は、闘病中の妻の看病の中から生まれていく。

 1934年、築地小劇場で初演された舞台では、滝沢修主演に松本克平・嵯峨善兵・宇野重吉・東野英治郎など錚々たる顔ぶれがそろう。しかし、獄中から出てまもなくの気鋭の村山知義はそれを批判するなどして波紋が劇団や組織の分裂にまで及ぶこととなる。

         

 その作品は戦前に書かれたものの現代にも十分通用する普遍性がある世界でもある。十郎の怒りは、「上に立ってワアワア言ってやる人間は当てにゃならねえものよ。…ドタン場になれば、食うや食わずでやっている下々の人間のことあ忘れてしまうがオチだ。」と、仙太に語らせている。本書は、600頁に迫る大部な評論だが、できるだけ十郎のナマの表現を引用してるような気配がある。しかし、読み手としてはもう少し直截に短く表現してもいいのではという愚痴も湧いてくる。

    

 とはいえ、地獄を知った人間だからこそ言える叫びが作品にはある。「<現実の歯車>を見た者にこそ、他人の歯車、社会全体の歯車の真の姿は見えて来る」という叫びは、そのまま戦後の赤貧の暮らしに人生を見てしまったオイラには痛いほど突き刺さる。

 文芸評論家の奥野健男氏は三好十郎を絶賛する。「戦後初期の新劇の不振の約十年間の中で、真にあふれるような、火山の噴火のような仕事で、新劇というジャンルを、いや劇作家の光栄と責任を負ったのは三好十郎だけと言ってよい。三好十郎は日本の戦後新劇をひとりで負っていたのだ」と。

           

 1951年、新橋演舞場で三好十郎作「炎の人・ゴッホ小伝」が上演された。滝沢修・清水將夫・細川ちか子・宇野重吉・小夜福子・多々良純・北林谷栄・奈良岡朋子・芦田伸介など劇団民芸総力を挙げたキャストだけに、新劇史上空前の記録の約10万人の観客を集める。

 エピローグに宇野重吉が詩を朗読する。「あなたの絵は今われわれの中にある。/ 貧乏と病気と、世の冷遇と孤独とから /  あなたが命をかけて、もぎとって / われわれの所に持って来てくれた / あなたの絵は、われわれの中にある。/ … 貧しい貧しい心のヴィンセントよ!  /  同じ貧しい心の日本人が今 / 小さな花束をあなたにささげて / 人間にして英雄 / 炎の人、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに / 拍手をおくる !  」

         

 「ゴッホの炎のすさまじさは同時にこの天才がどんなに苦しんだか」の証左でもある。「炎の人」ゴッホは、三好十郎その人自身でもあった。十郎の作品そのものが命がけだった。だから、十郎の提起した作品はいまだ現代を問うている。吉本隆明は、「三好十郎には文学的な営みがすべて、生存の根拠を問い直す死活問題だった」と評し、その生涯は「悲しい火だるま」みたいだとたとえた。表題の意味がやっと首肯できた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の歴史は<森と木と暮らしの循環>でもあった!?

2023-02-03 18:12:22 | 読書

 中山間地に住みながら、森や川はよそ事になっている。森や川は生活から遊離して抽象的な存在になっている。近くの国道では太い木材を高く積んだ大型トラックにしばしば出会うが、それとふだんの暮らしとはつながらない。そんなとき、いつも利用者のまれな図書館の新刊コーナーで、海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波新書、2022.4)をたまたま借りてくる。

        

 わが家は360度小さな山並みに囲まれた場所にある。数十年前、白銀の南北アルプスのふもとのいくつかのキャンプ場に泊ったことがある。その雄姿のスケールにほれぼれしてそこで暮らしたいと思っていた。しかし、その寒さをどこまで耐えられるかということ、乏しい懐事情との現実とかで、断念したことがある。そうして、都落ちするように「なんにもない」辺境の現在地に不時着した次第である。

     

 この地も昔は林業が盛んで、山奥には立派な邸宅も散見できたし、まわりの隣人も山持の地主や林業関係者も少なくない。しかし現在は、そうした山の恵みを実感できる環境にはない。著者は、「日本の歴史は木とともに歩んだ歴史であるといっても過言ではない」というが、現実はそれを受け止めるのは難しい。本書は木にかかわる入門書との意図もあったのか、前半の記述は教科書を読んでいるみたいだった。

   

 概論から各論に入っていくや、興味が刺激されていく。日本の<古代>は、「豊かな森のめぐみ」のおかげで、法隆寺のような寺院の大量造営の時代を実現した。それは巨木を供給できる森がすぐそばにあったからでもある。<中世>は、大仏殿造営などによる巨材の枯渇で全国から集積しないと作れなくなってきた。<近世>は、森の荒廃と保全のせめぎあいの中から森林の育成がめざされた。<近代・現在>巨材の確保はむずかしく、台湾など海外からしか確保できなくなった。同時に、古材の再利用や木材の循環サイクルが模索される。

         

 従来の建築史は、建築様式の違いが強調されてきた。しかし著者は、森の在り方・木材の運搬方法・技術や道具の改善・樹種の活用・柱間の規格化・治水などに視点をおき、その史的変遷を描いたところが斬新だった。とくに、巨木の運搬がいかに大変だったかがよくわかった。むかしは陸上というより川や海が運搬の主力でもあった。

   

 宮殿の多くから「コウヤマキ」の利用が多いというのを初めて知った。つい、ヒノキ・杉・ケヤキなどに目を奪われてしまうが、出土した「柱根」には水に強いコウヤマキが利用されていた、つまり木の特性がすでに奈良時代には認識されていたということだ。しかも、日本特産のコウヤマキは朝鮮にも輸出されていたというのも驚きだ。

           

 西洋の「石の文化」に対して日本の「木の文化」は木に特化した暮らしと精神性がある。それを展開してしまうと紙数が足りなくなってしまう。無理な要求であろうが、そこを鋭く端的に斬りこむ掘り下げが欲しかったというのが率直な感想だ。それには民俗・技術・林業・文化・宗教・文学など総合的な配慮が求められる。著者もそれは充分わかっていて随所にそれが散見できたが、その膨大な知識量をいかにまとめて料理するかの迷いがあったように思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「何に向かって歩くのか」の検証こそ…

2023-01-25 16:48:20 | 読書

 どうも敗者の歴史に目が行ってしまう。幕末の水戸藩で5000人もの死者を犠牲にしたという「水戸天狗党」にからむ悲劇に関心を持った。そこで、山田風太郎『魔群の通過 / 天狗党叙事詩』(ちくま文庫、2011.5)を読む。山田風太郎といえば、史実を奇想天外・魑魅魍魎のドラマ展開で人気である。

  しかし、この天狗党叙事詩は、史実を丹念に吟味しながら生々しい凄残さとロマンの行方の儚さが読後の余韻に漂う。今までの娯楽小説中心ではなく真摯な風太郎の怒りとやるせなさがにじみ出た傑作となった。表紙は南伸坊のデザイン。

       (武将ジャパンwebから)

 徳川御三家の一つ、水戸藩といえば、「尊王攘夷」で幕末の志士たちを鼓舞した理論的支柱となった。藤田東湖は水戸藩主徳川斉昭の片腕として藩政改革をするとともに攘夷政策の中心人物となる。一方、西郷隆盛をはじめ全国にも影響をもたらした。天狗党の藤田小四郎は東湖の四男。

 東湖の影響により下級武士を中心とした攘夷派には有能なブレーンたちが育ち、彼らが藩の中枢を占め始めると保守派との抗争が激化する。「天狗党」のネーミングは、成り上がり者が天狗になっているという保守派の軽蔑が込められているようだ。

      

 水戸藩の内部抗争は複雑で混乱の極みだった。一か月単位で「藩論」が変わり、内部での粛清・テロなどの直接行動も深刻化する。そんななかで、藩政改革に挫折した天狗党は、藤田小四郎らが筑波山で攘夷実行を幕府にアッピール。元家老の武田耕雲斎らは徳川慶喜経由で朝廷に天狗党の「志」を奏上すべく京都へと「長征」していく。

          

 しかし、1000人くらいの天狗党も食料が豊富にあるわけでもなく、現地調達という略奪・殺戮を各所で行うこともあり、幕府軍は天狗党を「賊」として追討を決定。天狗党は大砲・鉄砲などの武器運搬をはじめ、道なき道の進軍の厳しさは勿論のこと、冬の峠越えは難航を極めた。

 渋沢栄一が旧友の小四郎らに慶喜からの降伏の密書を持って行ったらしい。それを拒否したものの降伏するや、耕雲斎ら830名近くが逮捕、ニシンの蔵にすし詰めされるなどして死者も頻発、結果的には353名が斬首となる。

  

 攘夷を貫くという大義が「魔群」となり、各地方を荒し「通過」していく。それを立派な「勇士」ととらえる武士や農民らもいたようだが、実態は有難迷惑だった。各藩はなるべく戦闘は避けて宿舎を用意したり、現ナマで暴れないよう懐柔した。農民にとっては一時挑散したり、村ごと全焼させられたりの被害も大きかった。このあやふやな行軍の大義は多くの血と汗と人生を巻き込んでしまった。(図は「SAMとバイクとpastime」webから)

      

 山田風太郎は、武田耕雲斎のせがれであり当事者だった源五郎を語り部として悲惨な史実の黒子として採用し成功している。それは純粋な志が現実の壁に次々裏切られ、しかも凄惨な死を産み出していく過程の歴史小説でもある。それは「討つもまた討たれるもまた<敗者>の地獄」だった。皮肉にも、水戸の攘夷理論は薩長の御旗に変質し倒幕にすり替わってしまった。なんのための行軍だったのか。そんな怒り・苦衷・儚さ・慟哭がじわじわと迫ってくる。

          

 イデオロギーの魔界にすべてを失った男衆のなかに、女性の「人質」がいた。ここに風太郎らしい仕掛けがあった。その人質の「警護・監視」をしていたのが、十代の少年武士だった。その一人の語り部の武田源五郎は少年だったため斬首は免れた。イライラする行軍にホッと一息入れるのが人質の女性だった。詳細は著書に譲る。

  

 風太郎はたんたんと源五郎に語らせる。「それにしても、これほど徹底して見当ちがいのエネルギーの浪費、これほど虚しい人間群の血と涙の浪費の例が、未来は知らず、少なくともこれまでの歴史上ほかにあったろうか」と。

 天狗党幹部の家族の妻子は皆殺しとなった。しかし、幕府がなくなると今度は天狗党の残党が水戸の中枢を握り残酷な復讐をしていく。そのため、明治政府には水戸出身の高官はいない。天狗党蜂起のロマンは、「水戸内部の惨劇が、血で血を洗う復讐ごっこの反復で、あとにはだれもいなくなった」という結末だった。挫折経験豊富な風太郎の静かなまなざしがはかなく光る名作だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れられた明治の英傑・田岡嶺雲

2023-01-20 20:36:35 | 読書

 名前だけは知っていたがどんな人物かよくわからなかった田岡嶺雲(レイウン)。明治末に刮目した評論家として活躍したのにもかかわらず、その業績や一生は知られていない。しかも彼を研究したのは、元法政大教授・平和運動家の西田勝氏と教科書裁判で有名な家永三郎氏しか見当たらない。そこでやっと入手したのが、家永三郎『数奇なる思想家の生涯 / 田岡嶺雲の人と思想』(岩波新書、1955.1)だった。

   

 高知で生まれた嶺雲(1870・M3~1912・T1)は、少年時代に植木枝盛や板垣退助などの自由民権運動の雰囲気を直接的に体験する。東京に遊学した彼は、内村鑑三の授業を直接学んだり、帝大ではハイネに傾倒し、日本にハイネを最初に紹介した第一人者でもあった。

 その後、中学の寄宿舎の同室の友・山縣五十雄と一緒に文芸誌『青年文』を創刊。そこで、新進作家だった樋口一葉・泉鏡花・北村透谷らの才能を高く称揚し、文壇に新しい空気を注入する。そこで嶺雲は、近代社会の道徳的頽廃を告発し、貧窮する庶民へのまなざしを開眼すべしと訴える。それは同時に尾崎紅葉をはじめとする明治の世俗的権威・文壇への反論でもあった。

        

 そして、「万朝報」の論説記者時代では、欧米帝国主義からアジアの解放を主張したり、反藩閥・反富閥の運動を提起する。その後、北清事変の特派員となり、戦争の悲惨さや日本軍の残虐をまのあたりにし、帰国後それを発表する。また、岡山県知事らの汚職を摘発するが逆に「官吏侮辱罪」で訴えられ刑務所に収監される。

 また、文芸評論家として、夏目漱石・木下尚江を推奨したり、与謝野晶子の「君死に給うこと勿れ」を批判的に擁護したり、反資本主義・女性解放を見極めた先験的な主張をする。当時の文壇の流れに抗した孤塁で論陣を張る。

  

 しかし、こうした嶺雲の先駆的評論は、ことごとく発禁処分ともなる。したがって、資料がなかなかないというのが現在の実情だ。嶺雲は、文明の進歩によって、国家が作られ政府・軍隊も組織された。そして、貨幣・商業・私有財産・資本・機械も発明された。という経過を描いているが、その叙述がじつに唸ってしまう筆力だった。紹介したいが長くなるので結論だけ、「文明と進歩、そのおかげで地上は不平等の世となり、人は自由なき民となった」。現代文明の病根・幣はここにありと鋭く告発する。時代は明治の藩閥・軍事体制が確立まもないなか、直截に繰り返し主張したのだった。

         (画像は嶺雲、潮光庵ブログより)

 家永氏は、共同で雑誌を創刊した山縣五十雄氏に会い、嶺雲の性格を取材している。それによれば、「田岡はまったく天才肌の人物で、我儘なところもあり、俗世間とはしっくり合わぬようであった。非常に情熱的の、詩人と云うべき人物であろう。…矛盾した性格をもち、一方で子供のようなところがあるかと思うと、他方では老熟したところがあった」と。

   

 家永氏の評価は。「嶺雲は直感的思想家であった。…しかし、彼は迂遠で悠長な論証を通り越して直ちに核心をつかむ能力をもっていた。あらゆる破綻にもかかわらず、彼の直感的天才の洞察力はその著作の中に不朽の光を放っている。彼の直感を支えるものは、彼の熱烈な正義感と人道。これがある故に、彼は他の一切の不足を克服して、本質的な認識に到達する直観力を駆使しえたのである。」と。

           

 嶺雲は、明治初期に生まれ、帝大では漢学科に在籍していた。したがって、漢文の素養があり、その文章は今日では難解でもある。家永氏はそれを踏まえて読み込んでいるのだから学者の力量には頭が下がるしかない。西田勝氏は散逸している文献を「資料集」にまとめたという歴史的事業も残した。

 江戸の洋学者がいち早く世界を知ってしまったが、嶺雲は、文明開化した明治の本質が太平洋戦争につながることを直感的に見抜いていたともいえる。それはまた、現代の世相を暴露してやまない宝刀そのものではないかとも言える。現代から見れば嶺雲の限界や弱点も見えてくるが、その生涯は一貫していて、その核心は現代を抉って余りあるものがあった。

 

 

    

 

 

   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙人を超えるすごい90代 !?

2023-01-11 20:12:50 | 読書

  過疎化がすすみ集落ごと消失してしまった地域もあるいっぽう、いまだかくしゃくとして現役を生き抜いている90歳代の高齢者がいる。浜松の奥山・天竜区に住むそのスーパー高齢者が登場するドキュメント、池谷啓『過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない・すごい90代』(すばる舎、2022.10)を読む。

   

 活字もやや大きく、行間もそこそこあり、文章のフットワークもあり、すいすい引き込まれる。そのため、数時間あれば読破できるのがいい。そこには、90代ならではの風雪を超え荒波に削られたそれぞれの人生の奥行が醸し出されていた。その人生100年時代の特徴は、著者の一言でいえば、「<今日、することがある>こと、そして、それらを自ら生み出すこと」が鍵だと喝破する。

   

 著者は各人各様の元気ぶりの共通点を次の7つに集約している。

 1 日々するべき仕事がある。 2 暮らし・家事の中に動きがある。 3 菜食を中心とした粗食。 4 おしゃべりできる相手がいる。  5 ささいなことを苦にしない。 6 今ある暮らしに満足している。 7 人に喜んでもらうことが喜び。

  

  これらの共通点は90歳代だけのことではなく、年代にかかわらず人生の目標そのものではないかとも思われる。それを無理なく模索し、牛歩のごとく一歩を歩んでいくとするのではないか。その人生の仕上げの結果を著者は仏教の「少欲知足」とまとめる。オイラが長髪のころ修学旅行で見た禅宗・竜安寺庭にあった「つくばい」の「吾唯足知」の境地とほぼ同じだ。

        

 同じく、信州・伊那谷の老子と言われる加島祥造の詩『求めない』が想い出される。人や暮らしに多くを求めないことが幸せの真髄だということだ。大木を伐採し枝打ちもする林業家の鈴木さんの珠玉の言葉が、「不便というのも、悪いものではない。それだけで体を動かすことができる」と。

  

 それはオイラが農業もどきをやりながら痛感していた「農業は心身のリハビリだ」と思ったことと共通する。スーパー高齢者の達人たちは、山並みに囲まれた自然環境の中で心身をはぐくんできたこと、目の前の暮らしを身体を使って動いてきたこと、それらの中にある、人と自然とのかかわりから感動する感性を磨いてきている、というのが読み終わっての感想だ。

   

 都会から移住してきた著者がこの達人たちと出会った感動はよくわかる気がする。というのも、オイラの周りにも似たような達人たちがわんさかいるからだ。それは学歴とはいっさい関係がなかった。そこには、山里という不便な暮らしの中で鍛えられ、そこで人間力を育んできたということに違いない。それを除去した都会という虚像は人間の生きる根源をさらってしまうところでもある。土から緑から遊離した暮らしは歪みを環境に人間に醸成してしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明治維新という過ち」と現代!!

2023-01-06 21:48:54 | 読書

  前々から気になっていたのは、明治維新は日本の近代の幕開けにふさわしい選択だったのかという疑問だった。そんなとき、週刊誌的なセンセーショナルなタイトルが気になる本があった。それをついに読みだしてしまった。原田伊織『明治維新という過ち』(講談社文庫、2017.6)、副題が「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」だった。

         

 江戸から明治への歴史的変貌は、徳川に勝った官軍・薩長政府のプロパガンダによる教育が現代にも深く浸透していると著者は怒りを露わにする。要するに、官軍の羅針盤なきクーデターで徳川が築いてきた精神的歴史的平和的遺産を破壊してしまったというわけだ。それをあきらかにしないと、「この社会に真っ当な倫理と論理が、価値を持つ時代が、再び訪れることはない」と著者は断言する。

  

 著者の、吉田松陰・坂本竜馬・高杉晋作・西郷隆盛などへの志士への批判は手厳しい。その批判は荒っぽい展開だが、みょうに説得力がある。最近、竜馬の黒幕はイギリスだという説もだんだん強くなってきたのを感じる。むしろ、幕末の徳川側の武士・官僚の外交力の高さが評価されてもいる。

 著者は、明治維新至上主義を語る司馬遼太郎の錯誤をたびたび指摘しているが、次の司馬の言葉だけは評価する。「われわれが持続してきた文化というのは弥生時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にはほぼほろびた」と。

         

 また、西郷が官位を剝奪され、在野にくだったとき、「新聞各紙が西郷非難を始め、世論がそれに迎合したこと」について、福沢諭吉は「新聞記者は政府の飼い犬に似たり」と弾劾する。これについて著者は、「大東亜戦争前後の新聞に対してもそっくりそのまま当てはま」ると指弾し、それはさらに「今日のメディアにも当てはまるのではないか」と糾弾する。このへんはオイラもおおいに共感するところだ。最近のスマホやパソコンのニュースの玉石混淆のカムフラージュは目に余るものがある。

       

 加えて、幕末の薩摩藩主の後継争い、水戸学の狂気、水戸黄門の苛烈な実像、長州テロリストの過激な暗殺集団、吉田松陰の虚妄等々、知らなかったことが多々あるが、これらの歴史的な蓄積が大東亜戦争へと収斂されていく。

 著者は最後に、「私たちは、勘違いをしていないか。…<近代>は<近世>=江戸時代より文明度の高い時代だと誤解していないか」と直言する。これが本書の主題でもある。 

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風土に脈打つ民権の魂は!?

2022-12-30 19:21:46 | 読書

  数十年前に買ったまま放擲されていた、石川猶興(ナオオキ)『利根川民権紀行』(新人物往来社、1972.5)をあわてて読む。明治7年以降、板垣退助らを中心として憲法制定・国会開設・言論集会の自由を求めて薩長藩閥政府に対峙したのが自由民権運動だ。著者の父は明治末期その運動に触発され、加波山事件などの資料を集め出版する直前倒れる。

         

 民権運動につながるリーダーや群像には「利根川」があった。農協を世界で初めて創設した大原幽学、政治をただそうと筑波山で挙兵した水戸尊攘派「天狗党」、プーチンのような弾圧指導者・三島通庸を暗殺しようと蜂起した「加波山事件」、足尾鉱毒事件で体を張った「田中正造」など、命がけで闘った河畔の人間がいた。

          

 著者の父・多感な石川諒一は、明星調の歌人でもあった。開明的なジャーナリスト・文芸評論家でもある「田岡嶺雲」や右翼の大御所「頭山満」などにも傾倒する。なかでも、同郷の民権活動家・関戸覚蔵の影響も大きい。加波山事件などの草稿をまとめあげる直前で亡くなる。それらの記録文献は、民権活動家たちの「怨念」が伝わってきたという。それを「未死の霊」して本書に挑んでいる。

             

 民権運動の余波は、北村透谷・木下尚江・正岡子規・幸徳秋水・堺利彦・二葉亭四迷・島崎藤村らにも伝わっている。また、色川大吉氏が発掘した三多摩の「五日市憲法」のように、地方豪農の民権意識の高さも改めて評価しなければならない。

         

 しかしながら、民権運動は内部対立とそれを利用する権力の画策、苛烈な弾圧によって終焉へと向かう。著者は語る。「私たちが知ってきた歴史は何だったのかと思う。かつてそれは天皇であり、武将であり、封建君主であった。幕末以後は、多くが西南雄藩の歴史だった。いつも光は西からで、東はおおむね圧殺され、無視された。それでは反権力、反体制側はどうかというと、これまた多くはトップクラスのリーダーが浮かびあがってくるだけだった。彼らを支えた母胎、基盤は何だったのか。その無名民衆のひとりひとりの顔をどうクローズアップしたらよいのか」と、苦悩する。

         

  半世紀前に上梓した本書にもかかわらず、著者の苦悩はいまだに同じ轍の中にいる現代そのものでもある。評論家の松永伍一氏は的確な寸評を書いた。「石川氏のひたむきな巡礼にも似た姿勢を見るにつけ、この本が、学者の研究書とは異なる<肉声による記録>のために、きっと多くの心ある読者に開眼を迫ることになると信ずる」と。それは、「妬ましさを含むほどの関心事」であり、「胸さわぎに似た興奮をおさえることができない」試みだったと指摘する。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこにも属さない人

2022-12-23 21:30:56 | 読書

 このところ、車でのBGMはなんとショパンになっている。何回聞いても、マズルカもポロネーズもエチュードもそれらの違いがよく分からない。それでも、聴いてみて快いのは間違いない。そんなことで、中川右介『ショパン 天才の秘話』(静山社文庫、2010.10)を読む。ショパンの無名時代の葛藤と周りの天才的な巨匠たち(ベルリオーズ・メンデルスゾーン・シューマン・リストら)との「群像劇」が本書である。

         

 副題が、「20歳の孤独な作曲家とロマン派の巨人たち」とあり、祖国に帰れなかったショパンとその周りの巨匠たちのドキュメントだ。ショパンはポーランド生まれで、父はフランス人、母はポーランド人。祖国ポーランドはロシア・プロイセンなどに分割され地図上から祖国はなくなった時代に生きた。フランスを中心に活動したが、ときはフランス革命の最中。しかも、初期は仕事も恋もうまくいかず異邦人のままふさぎ込んだ孤独な青春期だった。

    

 音楽の時代区分から言うと、ショパンは一般的に前期ロマン派に属するという。ロマン派音楽というと音楽と物語を合体したもので、オペラのように歌詞のあるものや標題を持つ交響詩が特徴という。しかし、ショパンのそうした作曲はまれで標題も後付けで付けられたものだ。

 したがって、「ショパンという音楽家の特徴を挙げていけば、彼が、音楽史上例を見ない、孤高の存在であることがわかる」と、著者は断言する。

           

著者は結びで珠玉の言葉を残した。「ショパンの音楽はあまりにも独創的であったがために、模倣する者も後継者もなく、その作品そのものが伝えられた。ロマン主義革命の新しさが失われた後も、もともと革命とは無縁だったがために、ショパンの音楽は、生き残った。」「時代に背を向けて、引き籠っていたショパンこそ最後の勝利者となる」と。

   

 ショパンが作曲した中に、「英雄」(ポロネーズ第6番)、「軍隊」(ポロネーズ第3番)、「革命」(エチュード第12番) など、力強い名曲がある。それは無くなってしまった祖国とショパンは音楽の世界で出会っていたのではないか、そしてその不条理を告発しているショパンの姿がせつない。「英雄」とは、ナポレオンではないかとの意見が多いが、ロシア・プロイセン軍に対して蜂起し弾圧されたポーランドの英雄「タデウシュ・コシチュシュコ」ではないかと秘かに思う。

 このときも、領土拡張主義の帝政ロシアは本領発揮。当時の19世紀の歴史のそのまんま、現在のロシア帝国はウクライナの侵攻を固辞してやまない。歴史に学ばない国はいずれ内部から壊疽が起きていくが、すでにその兆候が進行している。同時に、劣化がはなはだしい日本も要治療のステージに入っている気がしてならない。(画像はペレストロイカのソビエト時代)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする