話題の映画「友罪」(監督・瀬々敬久)を観た。「心を許した友は、かつて日本中を震撼させたあの事件の少年Aだったら」。「<あちら側>へと踏み越えた少年A」が成人(瑛太)となり、また、少年時代、親友を自殺へと追い込んだ元記者との懊悩。そこから、二人の出会いは「死を想うこと、生を想うこと。その力が人を人とする」と川口敦子(評論家)は指摘する。(画像は「映画ナタリー」から)
その「過去から現在と未来を逡巡する者たち」の途方を、我々が愚直を引き受けて、その問いのなかを生き続けること(森直人・映画評論家)の意味を提起した映画でもある。
人間破綻を思わすが罪を全うしようともする主人公(瑛太)の複雑な演技が秀逸だ。一見、真面目そうだが過去に傷を持つ元記者(生田斗真)、二人の対照的な現在とが化学反応する。加害者家族としての責任を背負って生きている運転手(佐藤浩市)やハラスメントを受けている女性(夏帆)らの背負っている現実とが絡んでいく、
「日々大量に流され、徒に消費されもする三面記事やワイドショー・ネットニュース。その奥にあるような<いちばん小さな声>をキャッチするために、瀬々は懸命に耳をすませて、目を凝らしている」という森直人の指摘に納得する。重く暗いテーマだが、「二度と友達を死なせたくない」という希望がほの見えてくる場所に二人が向かうところで終わる。
この映画を観て、オイラの少年時代の傷を想いだす。その傷口からは、人間の悲しみ、やるせなさ、怖さ、バカバカしさとかの黒い塊がどろどろと流れてくる。その傷は完治することはない。少年時代に見てしまった人生の現実。
その塊とともに毎日の「生きる」があり、それを畑に漉き込むことで希望という潤いを獲得している。したがって、山里に生きるとは、定年後の田舎暮らしという口当たりいい清涼飲料ではなく、オイラにとっては傷口をふさいでリハビリしている自己再生の訓練所なのだ。