山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

台風の爪痕まざまざと

2022-09-30 23:07:47 | できごと・事件

 集団検診を終えてから、久しぶりに街に出かける。国道を車で7~8分も走ると、なんと路肩が崩れガードレールが浮いてしまっているのが見えた。先日の台風15号の影響だった。国道とは言いながら、中山間地の道路なので山や川が迫っている。そのため、車がすれ違うのがやっとの幅しかない所だけに心配でもある。

  

 規模の大小はあるが、こうした災害の爪痕がところどころあるのが分かった。屋根からの雨漏りはあったものの、わが家周辺では大きな被害はなかったので、これほどのことが起きていたとはうかつだった。

  

 川は意外にも濁っていなかったが、おそらく4~5mくらいの水かさが蛇行のカーブを襲ったようだ。あらためて川の破壊力に再認識する。川沿い、山沿いに生きる厳しさを痛感する。オイラも台風当日には、午前2時くらいまで起きて情報を確認していた。いつも寝るのは隣の山側の部屋だが、さすがにそこは避けて離れた側に寝るよう対策もとった。

 

 さて国道の続きだ。以前がけ崩れがあって、擁壁工事が終わって間もない石垣も倒れていた。よく見ると、その裏側の石が流されていた。もう一度同じことが起きれば、全部倒壊してしまいそうな擁壁でもあった。

 

 そこから車で30分ほど進行すると、もっとひどい崩落個所があった。車線の半分が崩れていた。片側通行でなんとか通れたが、安全確保の保安員が一人もいない。おそらく、あちこち被害があって人員配置はとても間に合わないということだろう。

  

 ここは隣に川の小さな支流がありそこからの激流が本流と重なりさらなる災害となったようだった。道路の厚みが見えるほどの破壊力に、またまた驚愕する。ニュースで伝えられる被害が身近かになった。立ち寄った道の駅のトイレは断水だった。駐車場に給水車がなぜいたかがわかった。

  

 わが家では大きな被害はなかったが、石垣の下からは雨水がどくどくと流出していた。もし、雨量が大量だったらこの石垣自体も持ちこたえられないに違いない。家の隣の道路はもちろん川のようになっていたが、深さは10cmくらいだった。かつて、ひどいときは20cm以上はあったので今回は予想の範囲以内だった。

   

 あらためて、日本の自然被害の日常性を考えさせられる。自然の豊かさと自然の破壊力との矛盾が日本そのものなのだ。魅力と残酷さとの共存。そこからくる微妙な感性の成熟が日本の芸術・和食・曖昧さ・生き方などに表れているのかもしれない。 

 

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萩の花が No.1のわけは

2022-09-28 12:00:00 | バタフライガーデン

 雑草の海のバタフライガーデンで、いま唯一花盛りなのは、萩の花だ。雑草に埋もれて命を落とした草木も多かったのに、萩だけは安心して成長をしてくれた。やせ地や裸地においてパイオニア植物として戦陣に馳せ参じる樹木である。茶畑の跡地に植えつけてすぐ反応が良かったのが「萩」だった。

 萩がなぜ古代人の人気になったかについて、万葉の歌人には「大和盆地」に縁のある歌人が多かったからという説がある。つまり、大和盆地の森林伐採・焼き畑農業による開発で、パイオニア植物の萩がよく見られたからだという。萩を育ててみてなるほどと思う。

  

  万葉集に詠まれた花を多い順に示すと次の通り。断然、ハギがトップなのだ。

 1位 ハギ 141首  2位 ウメ 118首  3位 松 79首  4位 橘 68首

 5位 桜 50首  6位 葦 50  7位 ススキ 47首 (数字は引用者によって微妙に異なる)

 なぜ、萩が慕われていたのか、それは、萩の原文が「芽子」と表現され、「めこ」は「妻子」、女性を表現する象徴として扱われたというのだ。それに対し、「鹿」は男性を表し、萩と鹿がセットで相聞歌となっている歌が圧倒的に多い、という。

             

 そこに、秋風・露・月・雁などの定番を登場させ、秋の風情と愛の切なさを交錯させている。したがって、花言葉も「内気」とか「思案」とかの控えめな風情を醸し出している。そこから、「秋の花見は萩だ」と古代人は謳うわけだ。わがガーデンの10mを越える萩の花の行列を見ると、なるほど秋の花見は秋だというのを実感する。

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茶農家には失敗だが !?

2022-09-26 22:22:39 | 植物

  お茶の花がいっぱい咲いていたが、いつのまにか一斉に落花していた。あわてて、枝を切り取って生け花の「茶花」としてみた。

    

 以前、農協の販売所で乾燥したお茶の花を一袋100円で売っていたので、購入し煎じて飲んでみた。お茶の渋味はなくきわめてまろやかだった。これだけだと物足らないので、ハブ茶と一緒に煎じて飲んでみた。やはりまろやかだった。健康に良さそうだ。

   

お茶の花はツバキ科なので、ツバキの花に似ているが花弁は小さい。葉に隠れるように咲いていて、下を向いて咲いていることが多い。日本的で控えめな花ではあるが画像にするのが難しい。お茶農家にとっては、お茶の花が咲くのは落第なのだ。栄養が花に盗られて茶葉に行かないからだ。これだけ落花した茶畑は近所から笑いものとなる。

          

 そのお茶の花をいつもの投げ込み生け花にする。茶席があればいいんだが。昔の茶農家は、種をまいて繁殖させたが、個体差がありすぎて均一な味にならないので、現在は挿し木で増やしている。ただし、大量生産がこれからの時代に合うのだろうか。個体差が出ている「持ち味」を愉しむ小規模生産では生活できないということ、になってしまうんだね。

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日本の起源は東北 !?

2022-09-23 21:54:22 | 読書

  日本列島で1万年以上も継続した縄文時代。その文化の中心は東北だった。保守派の論客・田中英道は『日本の起源は日高見国にあった』との著作を著わした。荒唐無稽に見えた彼のセンセーショナルな意見は最近の考古学の発展などから意外にも現実味を帯びてきているところがある。そんななか、中津攸子(ユウコ)『東北は国のまほろば /  日高見国の面影』(時事通信社、2013.8)を読む。

           

 従来も今も、人間の歴史は権力を手中にした勝者の歴史だった。敗者はその片鱗を残せないまま埋もれてしまった歴史でもある。「まほろば」とは、素晴らしい場所・住みやすい場所という意味だが、そんな場所が東北にあったというのだ。

 縄文人は弥生人のような農耕を選ばなくてもそこそこの生活は成り立っていた。中央集権的なヤマトや平安貴族ができても、もう一つの独立国「日高見国」が日本にあったというわけだ。その独立国を制覇するために、朝廷は「征夷大将軍」を任命し、侵攻を継続してきた。つまりは、頼朝軍が奥州藤原氏を滅ぼすまでは日本には国が二つあったということでもある。

  

 「日高見国(ヒタカミノクニ)」は、度重なる朝廷軍の侵略に果敢にまた柔軟に戦ってきた。著者は、記録から消された敗者の日高見国の発掘と復権を試みようとしている。とりわけ、日高見国の馬と金の存在は、国の防衛と財力にもなり、奥州藤原氏の文化の礎ともなった。

            

さらには、著者は、東北の和歌の豊かさを紀貫之の「歌は日高見国の文化である」という言葉を引用して、宮中を席捲したほど影響もあったことを検証している。

           

 平泉が世界文化遺産に認定されたように、その仏教文化・建築技法・伝統文化・独立精神・自然との共生・海外貿易・平和志向等、むしろ中央集権的な権力が失っていたものを保有してきた。その意味で、このところ「東北学」が確立され、その掘り起しが試行されていることは貴重だ。

  

 著者も、後半は駆け足になってしまったようだが、消された歴史をゆるりと解きほぐしていく姿勢に無理がない。かつて、「まほろば」の平和社会が日本にあったことをいかに継承していくか、それは現代的な課題でもあると痛感する。ロシアによるウクライナ侵略が現実化している現在、東北が継承してきた魂をふまえて、国内はもとより国際的にも提起していく礎になるものでもあると思えてならない。    

     

 

 

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それを食べたら死んじまう!!

2022-09-21 21:58:46 | 植物

 雑草の海と化してしまったバタフライガーデンは、少しずつ草刈りをしてきたものの、植栽してきた樹木は息絶え絶えの状態だ。そんな荒野の中で目立っている雑草は、「ヨウシュヤマゴボウ」(ヤマゴボウ科)だった。いつのまにか、2mくらいの「立派な」高さになっている。付近には20本くらいは茂っていたが、できるだけ抜根したりはしてきた。が、この草本の1本だけを放置してきた。

 というのも、オイラの「少年時代」にはそれが身近な植物だったからだ。それほど原っぱが多かった「焼け跡」の都会だった。これでよく紫色のインクを作っていたのを想い出す。その液が服に付くとなかなか落ちないことがあった。

        

 しかしこの「ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)」はきわめて危ない有毒植物で実や根っこはとくに危険。食べると腹痛・嘔吐・下痢症状になり、延髄に作用して痙攣し、死に至る事例もあるというのだ。それでも、原産地北米の先住民は、その若葉を何回か湯がいてから食べていたという。

     

 上の画像は、厚生労働省のHPからのものだ。上側が「ヨウシュヤマゴボウ」、下側が野菜の「ゴボウ」で、そっくりだ。地方のお土産として、「ヤマゴボウ」が売られていることがあるが、それは「モリアザミ」の根である。

 いずれにせよ、子どもが誤食しないよう配慮が必要だ。ブルーベリーと混じっていても実の大きさは変わらない。さて、このヨウシュヤマゴボウを食べた野鳥は大丈夫なのだろうか。ずいぶん、糞として撒いてくれたようだが。「次回からはサクランボやブドウの種をいっぱい撒いてほしい」と鳥たちに呼びかけることにしよう。

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梅雨のような夏に涼んだ食彩は

2022-09-19 19:52:27 | 食彩・山菜・きのこ

 蒸し暑い夏だった。しかも、梅雨のような雨足が続いた。そんなとき、和宮様がひょいと出していただいた「シソおにぎり」と冷たいドリンクがシンプルな清涼剤ともなった。ご飯は玄米と雑穀からなるおにぎりだった。いかにもヘルシーでシンプルだった。

          

 そのおにぎりは、塩もみした自前のキュウリと焼きサケが基本だった。そこに、高菜や沢庵などを刻んだ漬物が混ざっていた。夏バテ気味になったとき、このおにぎりはお代りを止めるのが大変だった。程よい塩気が効いているのだろう。

          

 さらには、海苔巻きの代わりに野生化して勝手に生えているシソを巻いて頬張るのだ。葉の大きさがまちまちだから大も小も交えて巻いていく。シソのシンプルな匂いが充満する。シソが足らなくなれば庭に採りに行けばよいというわけだ。高価な海苔の消費を心配しなくてもいいのが安心だ。食べ過ぎないようにするだけでいい。

          

 そしてときに、栗原はるみさんのレシピだというミント入りの炭酸水がのどの渇きを癒してくれる。ミントは雑草化して庭に猛威を振るっているから、いくらでも供給可能だ。いつもは、「梅ジュース」をガブガブ飲んでいるが、ライム入りの炭酸水・「ノンアルコールモヒート」が爽やかを身体に届けてくれる。こういう配慮がうだる暑さ・蒸し暑さを押し返してくれる。

            

 同じ空の下でも、ウクライナではロシア軍の残虐な殺戮や破壊が繰り返されている。人類はまだそうした行為を止めるには至っていない。さらには、地球温暖化対策さえ遅々たるものだ。こういう時代だからこそ、ひとり一人は何から始めるべきかが問われている。何に向かって生きていけばよいのか。今は、その方向が見えなくなった時代なのだろうか。右手にドリンク、左手におにぎりを持つ幸せに感謝しながら、空を睨む。

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世界は仮説でできている!??

2022-09-16 20:37:26 | 読書

 ダビンチさんからの課題図書は夏ではなく秋になってやっと読み終えた。といっても、新書版で素人の立場をよく勘案してくれた内容だった。著者は科学番組のテレビで活躍している竹内薫さんなので、難しいサイエンスブックかと構えていたが、見事にかわされた。それが、『99.9%は仮説 / 思い込みで判断しないための考え方』(光文社、2006.2) だった。

                      

 著者は、「世界は仮説でできている」とし、「あたりまえだと思っている常識や習慣や定説も、ただの仮説にすぎない」と強調する。そして、「頭の固い人は、先入観や固定観念にしばられて、思い込みでものをいいます」と迫ってくる。このところ、脳細胞が停滞しているオイラを見据えるかのような突込みだ。

  

 頭の固い人は、「自分の思い込みを最優先し、それに反する考え方や都合の悪いデータを無視します」と畳みかける。しかし同時に、「科学は、いつでもまちがいを潔く認めるものなのです」と、救いの扉を諭すことを忘れない。まるで、求道者のような語り口で寄り添ってくれるのがスゴーイ。

  

 科学に造詣の深いダビンチさんは、このことをオイラに言いたかったのかもしれない。同時に、本書は40万部を超えるベストセラーとなったのももっともだ。ネコ好きの著者は、ミステリー作家の顔もあり、幅広い柔軟な思考の持ち主であることも紙背からじわじわと伝わってくる。

          

 「一つの仮説ですべてが説明できる」、という従来の科学的常識をアインシュタインは「相対性理論」で逆転させた。つまりそれは、全体を統一する絶対的な基準というものはなくて、状況に応じた「相対的な基準」しか存在しない、というわけだ。著者はこのようにわかりやすく説明。これは、物理学だけではなく哲学でもあると、まずは納得する。

         

 著者はさらに、評判のラーメン屋にいったときの例を出してきて、その味は食べる人によって微妙に違うが、そこに相対的な「視点の設定」があるからだと言う。この例では味覚だが。相対性理論がちょっぴり近づいてきたぞ。「すべては仮説に始まり、仮説におわる」という禅問答のような著者の主張がわかりやすく流れているのが本書の魅力だ。

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邪道だがコムラサキを移植している

2022-09-14 21:17:40 | 屋外作業

 バタフライガーデンに勝手に生えている「コムラサキ」は樹高1~2mになってしまった。すでに、きれいな青い実も付けてきている。青い実を鑑賞してから春先に移植すべきだが、すでにジャンングル状態になって他の植物を邪魔している。もっと早く移植すべきだったが。実を鑑賞する一番の時期ではあるが急いで移植しなければスタートすらできない。

  

 ガーデンには20本以上の「コムラサキ」が繁茂していて、通行の邪魔もしている。どうしてこんなにも野生化したのかわからないが、野鳥の仕業であるのは間違いない。里山を歩くと、実がまばらな「ムラサキシキブ」とか葉がビロード状の「ヤブムラサキ」によく出会うが、実はコムラサキほど多くはない。その意味で、コムラサキは「小紫」とか「小式部」とかという名前以上に、鑑賞に堪え得る見事なブドウ状の実をつけてくれる。

 

 場所によっては集中して繁茂している所もある。強剪定にも耐えられる生命力もあるので、今年は涙を呑んで移植を断行するわけだ。根元側の小さな枝や上部先端の柔らかい枝も剪定して鶴嘴を主役に掘っていく。あらかじめ移植先に穴を掘っておいて、本体を掘り起こすと同時にその穴に移植する。夕方や雨の前後を見計らってとりあえず、10本ほどの移植を終えた。

  

 やはり土をしっかり保持した木は枯れていない。うまくいけば、実もつけてくれるかもしれない。なにしろ、花言葉は、「気品」「知性」「聡明」というくらいだからね。畑の周りの回廊のようなコムラサキ群団ができることを構想している。木と木との間隔は1.5mにしているので、その回廊はあながち夢ではない。

 ノリウツギとコムラサキを移植するとバタフライガーデンもかなりスペースがあき、やっと本来のガーデニングに着手できるというわけだ。わが人生のようにずいぶん、遠回りしてしまっている。目標達成と自分の命の消失とどっちが先になるかのせめぎ合いでもある日々なのだ。

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ランかシダかそれが問題だ?!

2022-09-12 21:27:24 | 植物

 近隣の農家から電話があった。「茶畑の近くに今まで見たことがないような植物があったんだけど。孫が調べたら<松葉蘭>というシダらしい。サンゴのような形でけっこう珍しいみたいだよ」という内容だった。さっそく、現地に見に出かけた。『シダ図鑑』のいちばん最初のページに似た写真が出ていた。それは、「一目一科一属一種」しかない特殊な菌根共生腐生植物「マツバラン」だった。つまり、他に似た例のない一つしかない植物だということだ。松葉に似ているが蘭ではなく「シダ」植物だった。

   

 これは、18世紀後半、天明年間の江戸時代には大名らの愛玩植物としてブームになったという。『松葉蘭譜』という書籍が出版されたほどだ。120種類以上のマツバランの品種が栽培されていたらしい。現在は環境省のレッドデータで「準絶滅危惧種」に指定されるほどの希少植物となっている。

 茎だけで光合成をして胞子をつくるが、葉も根もない。地下茎の仮根で菌類と共生しているという。どこからか胞子が飛んできて雑木林周辺の落葉に居場所を見つけたらしい。オークションの平均価格は9千円ということらしい。そっとしておきましょう。電話をくれた農家さんにも久しぶりに会えることもできた。ありがたい。いつものつながりには深ーく感謝。

 

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縄文回帰 = 西洋・中国文明は日本を幸せにしたのだろうか

2022-09-09 21:50:02 | 読書

 ロシアのウクライナ侵略は人類が築いてきた歴史を逆行させた。そんな時だからこそ歴史作家・関裕二氏の『<縄文>の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書、2019.3)を読み始める。今までの縄文時代は原始的な採集・狩猟経済のイメージや弥生人に駆逐されて北海道と沖縄に分断されていく歴史というイメージが強かった。

    

 しかし、最近の縄文情報は、三内丸山遺跡に象徴されるように高度な技術力・農耕栽培・信仰・芸術をもった文明だったことがわかってきた。1万年も続いた「縄文の底力」は、現代にも生きていると著者は指摘する。それは、大自然とともに生き共存するアニミズムであり、日本は「先進国で唯一、一神教を拒んだ国だ」とする。

   

 年表では縄文から弥生時代への変容は明確ではない。しかしそれは、著者によればヤマト建国も縄文人と弥生人との融合・葛藤とから形成されたのではないかと傍証を駆使しながら提起する。

 著者は学者ではなく作家だから緻密な展開というより、松本清張に近い推理で読者の好奇心をつなぎ留めていく。歴史の混乱を経験しながらも、日本人は「縄文への揺り戻し」で切り抜けて現代に至るのではないかという。

  

 「西洋文明は日本を幸せにしたのだろうか」、「文明と農耕と一神教の成立こそ、悪夢の始まりだった」と、著者はあえて断言している。それはおおいに同感はするが、紙数が短すぎる。そこで、翌年上梓した同著者の『縄文文明と中国文明』(PHP新書、2020.3)も読み始める。

           

 それがなんと、著者が言うには、「漢民族は、物に対する執着・貪欲さ」を持ち、「多民族から容赦なく物を求め、富を蓄える」、「合理的で冷徹に実利を追求する」怖さを侮ることはできない、と感情的なプロローグから持論を展開していく。その中国文明は西洋文明より早く進展し、しかも長く持続してきた。世界は中国を中心に開明してきたことで、「中華思想」が生まれる。

         

 著者は、「殺さなければ殺されるという大陸世界に生きてきた漢民族の行動から目を離してはいけない」とまで言い切る。さらには、世界の終わりはアメリカと中国との一神教同士の戦争にあると危惧する。ウクライナ侵略の2年前に刊行された本書の箴言はあながち勇み足とも言い難い。

 世界の先進であった「中国文明は人を幸せにしてきたのだろうか」と著者は問う。中国での青銅器・鉄器の発達は戦乱と虐殺の歴史ともなった。同時にそれは森林伐採の自然破壊の歴史でもあった。

  

 ヨーロッパ文明も産業革命でやっと中国文明に追い付いてきた。しかしそれも植民地獲得と支配地収奪・殺戮の実態があった。そこから、著者は、そもそも「文明は、人類を幸せにするのだろうか」という命題に行き着く。縄文人が本格的な農耕を選択しなかったのは弥生人の「狂気」を知ったのではないかと推理する。

  

 ヤマト建国は、何回かの戦乱を経たものの、いくつもの地域の緩やかな統治システムによって移行され、そこに縄文への回帰・揺り戻しが見られると著者は指摘する。そのルーツには、多神教という多様性であり、人間は自然の一部だという世界観・死生観があり、それが現代にも緩やかに流れている。

   

 そこには、朝鮮や中国から学んだ思想を消化した日本的な生き方が貫かれている。儒教や道教の先験的な教えを現代にも引き継いでいるのは、中国でも朝鮮でもなく日本ではないかとオイラも思う。著者の強引で感情的な結論には首肯しがたいところもあるが、心情的に惹かれる文脈であることはおおいに認めるところだった。

 

 

   

    

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